かの要人はご帰国あそばされる際に、嫌がらせのようにたくさんの仕事を残していった。
会議、検討、まとめて奏上、また会議……。接待の仕事も外すわけにもいかず、
    あーあ、当分寝る間もなし、っちゃなぁ。
昭栄は山のような書類を前に、げっそりとため息をついた。


幕間


 さやさやと風の音が聞こえる。夜の華たちが主役のこの街は、午前のこの時間はひどく静かだ。カズはただ目を閉じて、葉の擦れる音や鳥の鳴き声を聞く。
 別に風の音が好きだとかいう、そんな風流な感性など持ってはいない。雨が振れば湿っぽいとか、花が散ればただ散ったな、と思うだけ。
 多分、押し殺し続けている心には空っぽになれる時間が必要で、こんな時間でもなければそれもできないからそうしている。思いを馳せる故郷もないし、人も……

しょ、う、えい。

 無意識に漏れた声が、まるで世界の全てのように聞こえた。切なさや苦しさや不安が、ほんの少しの期待を持った心をさいなむ。
 夢だったのかな。二晩を共に過ごした、ただ抱きしめて優しくしてくれた、カズの幸せを願って泣いてくれた人。
 いっそ夢ならよかったのかも。それならば、今日は会えるかも、なんて無駄な期待をして傷つくこともなくなる。

 あぁ、でも。
 箪笥から取り出したのは、あの日昭栄が残していった、夢ではないと示す確かな証。この衣から昭栄の香りはもうしないけれど、これは確かに、あの夜の証だ。
 夢でなくて良かった。この世界にたった一人、気紛れでも自分を見てくれた人がいる。見返りもなく、泣いてくれた。
 夢でなくて、良かったのだ。そんな人がいてくれたのだと思うだけで、自分がひどく幸せな存在だと思えるから。




「カズ……」
「え?」
 古びた本を熱心に見ていた将は、翼のつぶやきに顔を上げた。カズさんが来たのかな?とふすまの向こうを振り返ってみても、人がいる気配はない。
 少しがっかりした顔で翼に向き直った将に、翼がまたぽつんとつぶやいた。
「ねぇ将、あの客を覚えてる?」
 あの客。毎晩ひっきりなしに現れる客の中で、わざわざ話題に上る人。
「あの、カズさんに優しくしてくれたっていう?そういえばずっと見てないけど……」
 もう二月ほど前の話になるだろうか。普段客の話などしないカズが、戸惑いがちに話してくれた一人の変わったお客さん。
「でも、別にもともと男色でもない、色好みでもない人なんでしょう?」
 興味本位や仕事で一晩泊まって、二度と来ない人なんて別に珍しくない。彼が来た二晩はどちらも仕事のようだったし、とりたてて騒いだり、気にしたりすることでもないと思うのだが。
「うん……やっぱりそうだよね。多分、あいつが……」
「…………翼さん???」
 将が首をかしげると、翼はえ?と顔を上げて、我に返ると取り繕うように笑った。
「あ、あぁ、何でもないよ。それより将、もう一回最初から。手が止まってる!」
「あ、はい!えっと……いろ、は、……」
 将は言われた通りに、たどたどしい手つきで本の文字を写していく。将は字が書けないので、空き時間はいつも翼に教えてもらっているのだ。漢字はまだ読めないが、平仮名ならばそこそこ読み書きできるようになってきた。
 何事にも一生懸命な将を眺めながら、翼はまた思考に沈む。
 最近、カズの様子がおかしい。もともと黙りがちではあるけれど、最近は少し違って、まるで何かに心を奪われているような、切なげな顔をするときがある。
 本人が気付いているのかは知らないけれど、あの表情は……
    どうしよう。奪られてしまうかもしれない。
 そんな風に思うのはお門違いだ。自分はカズが好きだけれど、それは思い合える友人として。この焦燥は子供が大好きなおもちゃを手放そうとしないような、そんな感情。
 自分には何も言えない。それはわかっているけれど。
 長年この店でたくさんの陰間たちを見て来た。その経験が翼を不安にさせていた。
    カズは、幸せにしてあげたいんだ。そうでなきゃいけないんだ。
 初めて会った日の、あの傷ついた目。あんな顔は二度とさせたくない。大事な大事な、翼の初めての友達だから。
「……失礼いたします。翼様、将様もこちらに御在室でしょうか?」
 見習いで下働きをしている童がふすま越しに声をかけてきた。いるよ、と答えると、
「ではお二方に。本日の御指名をお伝えに参りました。湯の準備が整い次第、もう一度御報告にあがりますので……」
「カズは?」
 間髪入れずに出た翼の言葉に、童も将も、翼本人でさえ驚いた。けれど何か胸騒ぎがして、翼はもう一度カズの指名は?と訊ねる。
「は、い……ございます。一様には後ほど」
「誰?」
「いえ、それは……団体様ではありませんので、一様以外の方には……」
 それはわかっている。翼だって普段はこんなことを聞きたいとも思わないが。
    何か、やなんだよ!聞いておかなきゃ気がすまない。
 いらいらと寄せられた眉根に気付いて、将がそっとふすまを開けた。驚く童を促して室内に入れると、そっと辺りをうかがってふすまを閉めてしまう。
 緊張した様子でついた手に額が当たるほど頭を下げる童に、翼がもう一度。
「誰なの?」
 きつい口調に縮こまる童に、将が苦笑して言う。
「僕は聞かなかったことにするし、翼さんもわかってるから。」
 童はしばらくためらっていたが、覚悟を決めたようにぎゅっと目を瞑り、口を開いた。


邂逅。
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