告げられた名は、会いたくて逢いたくて、たまらなく焦がれていた人の名。
高山昭栄。
たったその四文字だけで、捕らえられた心は簡単に揺さぶられるのだ。


籠の鳥 参


 この暖簾をくぐるのは、二月ぶりになるだろうか。店先に掲げられた妖しい灯りでさえも、今の昭栄には切ないほど愛しいものに思えた。


「一人、か?」
 声は震えていないだろうか。おかしな顔をしてはいないだろうか。
「はい。この辺に一人で来るんは初めてで、ちかっぱ緊張したとですよ〜!」
 声は上擦っていないだろうか。ちゃんと笑えているだろうか。
 開いたふすまの先にお互いの姿を確認した瞬間に、身が震えるほど熱い何かを感じた。
    あぁ、もう逃れられない。
 わけもなくそんなことを思って、カズは着物の裾を握った。
「一様、いかがなさいましたか?どうぞ、お進みくださいませ。」
 控えていた童の言葉に、凍りついていた足がようやく動く。着物の裾まで部屋に入ってしまえば、童の役目はもうない。
「高山様、ごゆっくり御寛ぎくださいませ。御用の際は何なりと。」
 深く頭を垂れて、童の手によりふすまが閉まる。足の指が震えるのが、自分でもわかった。
 昭栄と共に過ごすのが嫌だからじゃない。むしろその逆。こんな気持ちで客の前に立つことなど、初めてだ。
    そばに行きたい。もっと、もっとそばに。
 自分の隣に、それもぴったりと寄り添うように座ったカズに、昭栄は目を丸くした。思わずその顔を覗き込むと、恥ずかしそうな瞳が昭栄を見つめる。
    カ、ズさん……?
 陰間と客の関係からすれば、当たり前の構図なのかもしれないが。昭栄は一気に上がる心音をごまかすように、そうだ、とつぶやいて、ごそごそと大きな包みを取り出した。
「これ、カズさんに。present」
「ぷれ、……?」
「贈り物、ちこつです。開けてみて?」
 素直に従って、美しい和紙の包み紙を紐解く。中には、水色に金と朱の装飾が施された、素晴らしく鮮やかな着物。一目で高価なものだとわかる。
「一応言っておきますが、これはですね、親のスネばかじって買ったんじゃなかですよ?俺がカズさんのためにってがんばって稼いだ金で作らせたもんですけん。」
 言い訳がましいことだけれど、「いいとこのおぼっちゃん」として軽く見られるのが、昭栄は一番嫌だった。他でもないカズには、自分がカズのために、そう気持ちをこめたことを知ってもらいたくて。
「……すごか、な。ありがとう。」
 感嘆のため息をつくカズに、昭栄は照れくさそうに笑う。
「ほら、カズさんいつも赤い着物でしょ?赤もちかっぱ似合うばってん、たまにはこげん色もよかかなーって思ったとです。カズさん美人さんやけん、何でも似合うし。」
 確かに、店の支度金であつらえられた着物は赤いものが多い。橙色もあるにはあるが、朱に近いと言えるだろう。どれも皆美しい、農家の子では知ることもないような上等な着物だ。
 けれど、この着物の美しさには何ものも勝てないだろう。水色の生地の上を金の川が流れ、ところどころに朱の花が散る。その異彩を放つ美しさ。
「カズさん、着てみて?」
 昭栄の言葉にカズは一度顔を上げて、またすぐに着物に目を落とした。昭栄に選ばれて、昭栄の手で贈られた、昭栄の気持ちのこもった美しい着物。
 ふるふると首を振り、丁寧に紐を結びなおすカズに、昭栄は不安そうに眉を下げた。
「カズさん、気に入らんかったですか?水色は嫌い?それやったら今度はカズさんの好きな色で」
「次。」
 上げられた目元はほんのりと赤く染まって、じっと昭栄を見つめる瞳は透明に澄んでいる。この綺麗な瞳に、今自分はどんな風に映っているのだろう。
「次、来てくれたとき……着る。」
 だから、また必ず来て欲しい。美しい着物で着飾った、昭栄のために着飾った自分を、見に来て欲しい。
 また会いたいとは言えない。陰間であるカズの、精一杯の言葉。
「……っカズさん、かわいかぁ……!!」
 顔を真っ赤にした昭栄にぎゅっと抱きしめられて、カズもその胸に頬を寄せた。
「ごめんね、我慢できん。もう俺カズさんにめろめろっちゃもん。」
 耳元で聞こえる声の甘さが指先を震わす。温かい腕と鼓動が心を満たしていく。もう二度と会えないと思った。何度も夢に見た昭栄が、ほんとうにそばにいる。
「しょうえい、今、俺の欲しかもん……わかると?」
 昭栄は少し首を捻って、腕の中のカズを見つめた。
「何?俺にあげられるもんですか?」
 こくんとうなずくカズを見て、昭栄が唸る。今すぐ欲しいものとはなんだろうか。新しい着物ではダメだったのか……悩む昭栄の背中に、カズがそっと腕を回した。
「心。しょうえいの心が欲しか……」
 驚きすぎて固まってしまった昭栄の目を、カズの瞳がじっと見つめる。
 今だけでもいい。今この瞬間だけでも、昭栄にただ一人愛される存在になりたい。この店を出て誰の元に帰っても、誰を想っても、抱いていても構わないから。
「しょうえい……俺んこつ、好き……?」
 不安に震えながら、それでも紡がれた言葉に、昭栄は唇をかみしめた。今自分が、仕事でもなんでもなくここにいる、その理由はただ一つ。
「好いとー……。俺の心はもうずっと前から、カズさんだけのもんったい。」
 強く抱きしめられて、ささやかれた言葉にカズは目を閉じた。
「俺も、……好いとーよ。俺は陰間やけん、体は売らんといけん……ばってん、心はしょうえいだけのもんに、してほしか。よか?」
 昭栄は何も言わず、カズの頬にそっと手を添えた。漆黒の瞳が一度瞬いて、ゆっくりと閉じられる。
 交わしたのは、言葉ではなく初めての口付け。それが答え。それだけで、十分だった。



 いつものように手を繋いで、通されたのはカズの私室のようだった。色のはげかけた箪笥にカズ自らが大切に抱えてきた着物の包みがしまわれて、代わりに取り出されたものを見て、昭栄が目を丸くする。
 以前来たときに残して行った、自分の上着。カズが愛しげに抱えている姿を見て、昭栄は嬉しそうに笑った。
「……これ。」
 敷かれた布団の上に寄り添って座ると、上着を膝にかけられた。恥ずかしそうにうつむいた様子を見るだけで、何が言いたいのかわかってしまう。
「ん、よかですよ。交換しましょう?」
 今着ている上着を脱いで肩に掛けてやると、カズの頬が幸せそうに染まった。その様があまりにも可愛くて、思わずその頬に口付ける。一瞬カズの体がぴくっと揺れたが、カズは何も言わず昭栄の首にすがりついた。
 赤く透けた耳。昭栄は微笑んでカズを抱きしめた。そのまま布団にもぐりこみ、目を閉じる。
「…………?しょうえい?」
 目を開けると、カズがくりくりの目を見開いて自分を覗き込んでいた。昭栄が首をかしげると、何か言いたげに顔を赤くして、口をもごもごとさせている。
    ……。うぬぼれてもいいなら、これはつまり。
「カズさん、もしかして期待しとーとですか?」
 聞くとカズは首まで赤くして、昭栄の耳を思いっきりひっぱった。
「いだっカズさん痛かです!!」
 言葉とは裏腹に、昭栄は笑いながらカズを強く抱きしめる。照れ隠しに抵抗してみせる様がひどく可愛らしい。黒髪の隙間からのぞく耳に口付けると、カズの体温が上がったのがわかった。
 抱きたいと思わない、と言えば嘘になる。心を開いてくれた今は、こんなにもそばにいて何もしないのは正直、辛い。
 きっと抱きたいと言えば、カズもうなずいてくれるだろう。陰間としてではなく、カズ自身の気持ちで。
「……せんよ。告ったその日に襲い掛かるげな、いかんこつです!」
 決意をこめて言い切った昭栄に、きょとんとしていたカズが笑い出した。こらえきれないと肩を震わせるカズに、抗議するように口付ける。
「そげん笑うこつじゃなかでしょ!俺のこだわり!!」
「おかしか……はぁ、お前ほんと変な奴っちゃね。」
 浮いた涙を拭って、カズが微笑んだ。昭栄の胸に顔をうずめて、幸せそうに息をつく。
「すんませんねー、変な奴で?」
 いじける昭栄にまた少し笑って、小さな声でつぶやいた。
「しょうえいはそげんとこが、よかよ。誰とも違う、とくべつ……」
 たどたどしい言葉に詰まったカズの心が嬉しくて、昭栄はその艶やかな黒髪を優しくなでた。偉そうなことを言っておいて、もう理性が揺らいでいる自分がおかしい。
    ばってん、しょうがなかよね?カズさんが可愛すぎやもん。
 腕の中に好きだと告げあった想い人がいるのだから、こんな気持ちになるのも仕方のないことだ。
 昭栄の心の揺れを感じとったのか、カズが胸に頬をすり寄せて笑った。どうする?と試されているようで。
    九州男児としては、ここで負けるわけにはいかんっちゃろ。
 乗ってしまえと誘惑に甘える心を押し込めるため、昭栄はカズの髪に鼻をうずめる。
「ねぇ、カズさん……一つ、お願いしてもよか?」
 身じろぎをして顔を上げたカズの耳元で、ささやく。
    次来たとき、させて?
 ほんのりと頬を染めて、カズはこくんとうなずいた。


甘い夢の中へ。
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