特別な客を迎える日にだけ許される、特別な石鹸は不思議な花の香りがする。それをふんだんに使い、泡で撫でるように身体を洗う。
清潔な湯で洗い流したら、擦らず丁寧に肌の水気をふき取り、浴室をあとにした。
籠の鳥 四
陰間は商品である。多くの陰間たちは毎日複数の客をとり、仕事ができなくなれば、まるで壊れた扇子のように、即座に切り捨てられる。
しかし、看板の扱いであるカズたちは事情が違う。日々、常に「価値を保つこと」を重要とされていた。
価値とはすなわち、美しいこと。そのためなら何をも惜しまないし、安売りもしない。上等な物だけを身に纏い、上等な客だけに身を捧ぐ。看板の品格は、店の品格に関わるのだ。
「一様……」
カズの腕に惜しみなく高価な香油を塗りながら、童はその大きな瞳を部屋の隅へ向けた。
「美しい御着物ですね。」
童の言葉に、ぼんやりとしていたカズの視線も動く。そこには、水色の豪奢な着物が掛かっていた。
「布も装飾も素晴らしいですけれど、何よりも、高山様のこめられた愛情が素晴らしいのでしょう。」
童はカズ付として働いて、もう数年になる。普段から言葉少ないカズではあっても、最近の彼の変化には気付いていた。
高山昭栄は、カズにとって特別な存在だ。客からの高価な贈り物は、珍しいことではない。しかしカズがそれを自ら身につけると言い出すことも、そもそも私室へ客を招いたことも、初めてだった。
童の静かな言葉に、カズの瞳が小さな驚きを宿して童を映す。立場をわきまえた賢いこの童が、客についての何かを口にすることなど一度もなかった。
「その愛情が、何よりも一様の美しさを引き立ててくださることでしょうね。」
童はカズが好きだ。目上としても慕っているし、数いる陰間の中でも気高いカズ付であることを誇りにすら思っている。
カズは見習いの自分にも、いつも優しい。失敗をしたときも番頭に気付かれないようかくまってくれた。お使いに出るときは、必ず童が好きなものを買えるよう、こっそりと余分なお金を持たせてくれる。
そんなカズが好意を持っている人だから、高山昭栄もきっといい人だ。カズへの恩返しのためにも、彼にはできるだけ便宜を図りたいと思う。
番頭や店主はいい顔をしないかもしれないが……。
「一様、私にできる全てで、一様の御気持ちを御守りします。高山様と、少しでも長く一緒にいられるように……」
濃く深い緑と金の刺繍の帯を締めて、身支度を終えたカズを見上げる。小さな童の頭を、カズの細い指が優しくなでた。
「そげん無理……せんでよか。お前はいい子や。何も、気にせんでよかよ。」
失った家族の思い出のような、温かいカズの言葉。泣きそうになった童の耳に、遠く入り口の辺りの賑わいだした音がかすかに届く。
「……一様、参りましょう。」
いつもなら渋るカズのために、少しくらい客を待たせてやる気持ちでのんびりとしているのだが、今日は違う。待ちに待った、特別なお客様なのだから。
促す童にうなずいて、逸る気持ちを落ち着けるため、カズがゆっくりと歩き出した。
失礼致しますと声がして、一拍置いてすらり、開いたふすまの向こうには、眩い色が溢れていた。
「……っ」
上座に座り、そわそわと逸る気持ちをごまかすように杯を弄んでいた昭栄は、息をのんで目を細めた。
実際にそこに極彩色の世界が広がっているわけではない。ただ、そこに控えている、待ちわびた恋しい人が、あまりにも美しくて。
天使か、女神か。いや、この国風に言えば天女か。
世界中の光と色を一身に受けたような姿。馬鹿なことをと笑われるかもしれないけれど、本気でそう思ったのだ。
昭栄は言葉を失って、ただただその人を眺める。今日会ったら、何て言葉をかけようか、散々考えていたというのに。言葉など何一つ、一文字だって、出てこない。
無言のまま座っている昭栄に、カズが少し不安そうにまぶたを震わせた。伺うようにそっとその目を上げて、小さな唇が開く。
「しょうえい……?」
名前を呼ばれて、ようやく、心が感動で打ち震えるのを感じることができた。それほど目の前のカズは美しい。夢じゃないかなどと、思わず不安になるほどに。
伸ばされた腕に、カズがおずおずと足を進める。背後で静かにふすまが閉められると、退路を断たれてしまったような、妙な不安を覚えて震えた。
さっきから、昭栄が何も言わないからだ。あんまり着物が似合わなくて、がっかりしているのかもしれない。そう思うと、そばに行くのも不安になってしまう。
せっかく会えた、貴重な機会なのに。がっかりされて、それでもう来てくれなくなったら?自分から会いに行く術など、陰間の自分にはありはしない。
やっぱり、着替えてこようか。ためらいに触れる寸前で止まったカズの手を、昭栄が思いっきり引っ張った。
「ぁっ……」
倒れこんだ先は、昭栄の腕の中。ぎゅうっと、息が止まるほどの強さで抱きしめられる。
「カズさん、綺麗……綺麗すぎて、泣きそうったい」
天女やら夢幻だったらたまらない。ちゃんとここにいるのがカズかどうか、確認したくて力をこめた。くっとカズの喉が鳴って、苦しいのだとわかると、それで妙に安心する。
こんなにも美しい人を抱きしめられる自分は、なんて幸せ者なのだろう。昭栄は腕の力を緩めて、大きく息をつくカズの頬をなでた。
「カズさん、顔見せて……」
「い……嫌や。今、顔赤かやけん……」
いいから、と強くねだられれば逆らえない。カズは昭栄の胸に頬を寄せたまま、ほんの少しだけ顔を上げた。昭栄の指がカズの顎に添えられ、もう少し上を向いて、と促す。
間近で視線が交じり合うと、昭栄の瞳がうっとりと微笑んだ。綺麗、とこぼれたつぶやきと耳をなでる指に、カズがくすぐったそうに目を細めると、額に、まぶたに、優しく唇が触れる。
耳元でささやかれた、その声はどこまでも甘く。
「……早く脱がしたか」
ふふ、と照れたように笑う昭栄の吐息で、カズの目も潤む。
昭栄に求められている。それが、とても嬉しい。今日、自分は初めて、愛する人に抱かれるのだ。
「せっかく着てやっとーに、ちゃんと見てなかやろ」
抗議するような口調とは裏腹に、カズは昭栄の首にすがるように腕を回して、唇を合わせた。
今にもなだれ込みそうなしどけない空気。お互いに我慢などする必要もないから、食事の膳などには見向きもせず、二人はすぐにカズの私室へ向かった。
別にその場で身を委ねても構わなかったが、昭栄は特別だと、カズなりに示したかったから。特別な昭栄との「初めて」は、他の誰にも汚されていない場所で迎えたかった。
童が気を利かせたのだろう、すでに用意された寝具に気恥ずかしくなる余裕もなく、深く口付けて抱き合ったまま、もつれるようにそこへ倒れこむ。
「は、……カズさ……」
荒い吐息をこぼす昭栄の唇を、カズの熱い舌がねだるように舐め上げた。欲情に濡れたその青い瞳に、今は自分しか映っていない。それだけでカズは快感に身を震わせた。
覆い被さって噛み付くように唇を貪る昭栄を、カズの白い指が撫でる。頬、耳朶、首、背中。布越しでも触れた肌が粟立つのを感じ取って、カズはその逞しい背をかき抱き、一層激しくなる口付けに夢中になった。
「……んぅ……ぁ、しょうぇ……」
ほんの少しの呼吸の間さえも惜しくて、名前を呼ぶ。呼吸は乱れて、目元が紅く染まっていく、その艶めかしさとは裏腹に、健気に昭栄の首を引き寄せて唇を求めるカズに、昭栄の眉根がきゅっと寄せられた。
「カズさん、もう、俺……!」
しゅるっと帯が引かれる音が鳴る。少々乱暴な、急いた手つきで着物を剥がれていく様に、カズは恥ずかしげに顔を逸らした。淡く灯された橙色に、合わせの解けた長襦袢から覗くカズの肢体がほんのりと照らされる。
細い首筋、くっきりと浮いた鎖骨、頼りなげな肩。
しっとりと柔らかい二の腕、肉付きの薄い腰と背中、慎ましやかなへそ。
「あぁ、やっぱり……」
ゆっくりと指や掌で辿って、追うように唇も這わせていく。カズの潤んだ視線を感じながら、辿り着いた淡く色づいて尖る乳首に、目を細めた。
なんて、綺麗。
「あぁ……っ」
ささやいた吐息に、触れた唇に。カズは、生まれて初めてのあえかな声を上げた。
「は、ぁん……、ぁ、」
自分でも、驚いた。
今まで幾人の男に抱かれたか知れない。けれど、一度だって感じたことなんてなかった。
こんな、恥ずかしい声など、一度も……
「あ……!」
片方は指で、もう片方は唇と舌で、愛撫される両の突起は赤く熟れて快感を生む。強く吸われると同時に片方を親指で潰されて、カズは咽喉を反らせて喘いだ。
気持ちいい。
震える身体をなだめるように優しく先端を転がす舌の動きにも、乳輪を撫でる指にも、首にかかる柔らかな髪の感触にさえ、声が漏れるのを止められない。
気持ちいい。
ピチュピチャと音を立てて舐め回されて、もうたまらなくなった。
「しょうえい、しょぉえい……!」
泣きそうな声で呼ばれて、夢中になって胸に吸い付いていた昭栄の唇が戻ってくる。深く合わさったそれを離すまいとするように、カズの指が昭栄の髪をかき混ぜた。お互いの唇が赤く腫れるほど、強く強く吸い合う。
「はぁ、……ぇい……」
酸素を取り込む間、見詰め合うとカズは熱い吐息を漏らして、真っ黒な瞳からぽろりと涙をこぼした。すき、と唇がささやく。
そんな甘い声で、潤みきった瞳を揺らして、唇なんてお互いの唾液でぬらぬらと光って。
こんなに大好きな人のそんな艶めかしい姿に、煽られない方がおかしい。
「……っ、も、無理っ……!」
突然呻くように呟いた昭栄が勢いよく身を起こし、しどけなく投げ出されていたカズの足を折り曲げるように抱え上げた。
「ぇ、あっ!?」
足の間から誇張した昭栄の欲望を垣間見て、カズがぎょっと目を見開く。慌てて身を起こそうとするが、ぐっと圧し掛かられて中途半端にもがくことしかできない。
「ゃ、待って!!」
思わず上げた静止の声は我ながら情けないほど可愛らしいものだったけれど、完全に理性が飛んでしまっているのか、昭栄はそのまま身を沈めようとする。その勢いにカズの顔が真っ青になった。
腰が浮くほどの力で抱えられてしまった足は動きようもなく、こんな体勢では押さえ込んでくる体を突き飛ばせようはずもない。
もう、しょうがなかっ……!!
カズは思いっきり手を伸ばして、今にもカズを貫こうとする昭栄の雄を掴むと、先走りで濡れた先端につつっ……と指を這わせた。
「う゛っ!!?」
突然の快感に昭栄はびくっと震え、そのまま勢いよく吐精してしまった。
指や足の間に広がる濡れた感触に、とりあえず流血沙汰だけは免れたとカズがほっと息をつく。伊達に遊郭で看板は張っていない。こんなときの対処法も、いくつか体に染み付いていた。
「か、カズさぁ〜〜〜ん!?」
わけがわからない達し方をしてしまった昭栄は、混乱と非難の入り混じった声を上げた。
「…………。」
カズは無言のまま据わった目で、まだカズの足を抱えたままの手を振り払い、昭栄の目の前に座り直す。つられて正座した昭栄の頭を、カズが力いっぱい叩いた。
「だっ!!何すっとですかー!?」
「お前こそ何しよっと!?俺んこつ殺す気か!?」
カズの怒り様と物騒な台詞に、昭栄は涙目ながらも口を閉じる。じっとカズの言葉を待っているその姿をまじまじと眺めたカズは、大きなため息をついた。
「しょうえい、お前…………ちかっぱ下手くそ……。」
万感の思いを込めたその一言に、昭栄はビシッと凍りついた。
痛恨の一撃に魂を飛ばしかけている昭栄に、カズはがりがりと頭をかいてもう一度ため息。
「あのなぁ、女だって挿れる前は慣らすやろーが。まして男に突っ込むんに、濡らしもせん慣らしもせんじゃ、いっくら俺が陰間でも無茶やろ。つーか無理!死ぬ!!」
百年の恋も冷めるだろうあんまりな展開に、陰間になって以来鳴りを潜めていたカズ本来の逞しい性格があらわになっていた。
呆然としたままの昭栄を、カズが拗ねたように睨み上げる。
「せっかく、初めて気持ちよかって思っとったのに……あげん声出したん、お前が初めてやったとよ?」
ぷー、と尖った唇にようやく魂を取り戻した昭栄が、目を丸くして瞬きを繰り返した。そんな仕種や表情を見ていたら、何だか昭栄が大きな犬のように見えてくる。
しかも、陰間の抱き方も知らんちゃ……ちかっぱ情けなか。
しょぼんと尾をたれた姿は情けない。でも、一生懸命に愛してくれる。不思議なくらい自分をわかってくれて、優しくて。
カズは耐え切れずに口元をほころばせ、昭栄の首にぎゅっと抱きついた。
「……え、え?カズさん……?」
「ん……お前聞いてなか?俺は夜伽んときも声も上げん〜って。あれ本当。演技だってしたこつなかし」
膝に乗り上げて来たカズを無意識に支えつつ、昭栄は眉根を寄せて記憶を辿る。そういえば何かそんなことを聞いたような、気もする。むっとしたから無視したんだっけ。
ということは、あの可愛い声やらふるふるした表情やらは、自分しか知らないものということで。
……あれぇ……それって、何かすごかこつ…………?
先程ばっさりと下手くそだと言われてしまっているのだから、カズを喘がせたのは、技量などではないものということだ。
『この心は、昭栄だけのもの』
脳裏に蘇るカズの言葉が、昭栄の鼓動をトクトクと鳴らす。
楽しげに昭栄の頭を抱いてわしゃわしゃと撫で回しているカズを、そーっと抱き寄せてみた。するとカズの手の動きが甘やかすように優しく変わり、身を委ねられる。
「う、嬉しか、です……!」
カズの肩口に額を擦り付けると、こめかみにちゅ、と口付けられた。そのまま耳へ移動したカズの唇は、昭栄の薄い耳朶を甘噛みすると、小さな声をこぼす。
なぁ、あれで終わりは寂しか……。
突然の甘いささやきに、昭栄の耳が赤く染まる。同時に感じた下半身の変調に、昭栄は更に顔を赤くしてカズの肩に顔を埋めた。しかし当のカズは膝に座っているのだから、顔は隠せてもそちらは隠しようもない。
「しょうえい、俺が欲しか……?」
思い返せば昭栄は以前、男を買うのは初めてだと言っていた。まさか女を抱いたこともないとは言わないだろうが、どちらにしろこの様子だとあまり手慣れていないのは明白で。
困った様子で顔を上げない昭栄の頭を優しく撫でて、カズは微笑む。
「大丈夫や、今度はちゃんと教えちゃる。」
全く、図体だけは一回りも二回りも大きいくせに。まさか客に自分の抱き方を指南する日が来ようとは、思いもしなかった。
「……カズさん、意外と男前ですね。」
そういうところも、好きデス。
顔を伏せたままの昭栄の言葉に、カズは笑った。何年ぶりかもわからないほど、明るく声を上げて。
一番予想外なのは、こんな情けない一面も、昭栄なら可愛くて愛しい、なんて思う自分がいること。
覚めやらぬ宵の夢を胸に。
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