目が覚めたら、隣にはもう誰もいなかった。
幕間
昨夜の出来事は夢だったのだろうか。寝起きにぼんやりとした頭で、カズは首をかしげた。
幸せになってほしいからと、あの男は言った。だから何もしないと、隣でただ眠るだけ眠って帰って行った。
わけわからん……。
外人かと思えば九州の方言でぺらぺら喋るし、何が楽しいのかへらへら笑うし、官僚のくせに自分のような「陰間ごとき」に敬語を使うし。
高い金を払っておきながら、本当に何もしないし。
変な奴だ。しかし、所詮客だ。一夜限りのことに、うだうだ考えるなんて時間の無駄。そう結論付けて、カズは起き上がった。
体、軽か……。
一度も抱かれずに迎えた朝なんて、何年ぶりだろう。深く息を吸えば、空気が妙にすがすがしく感じた。
朝餉をとりに向かった部屋で、将と翼を見つけた。隅に並んで座っている二人の向かいに、カズも座る。
「……調子悪そうっちゃね。」
翼の疲れた顔色に言うと、翼は箸を持ったまま頬杖をついた。
「うん……あの外人のオッサン、ウザくてさ……。ったく、英語ならわかんないだろうと思って好き勝手言ってくれちゃってさ〜!何回殴ろうと思ったか。」
頭の回転が速い翼は、外国語もそれなりに聞き取れるらしい。何か屈辱的なことを言われたのだろうと、カズも目を伏せた。陰間を抱きながら、罵倒する客は結構多い。カズも同じような経験があった。
「大体、じゃあその陰間を好き好んで買ってるお前はどうなんだよって。いい加減にしてほしいよね、あーいう権力バカ。」
翼の暴言にカズは少し笑ったが、将は心配そうに翼を見つめたままである。
「……大丈夫だよ、将。経験長いから、慣れてるんだってば。いつも言ってるだろ?」
「はい……翼さんがそう言うなら、信じます。」
将はこの店に来てから、翼を兄のように慕っている。素直な将は翼のお気に入りで、二人は本当に仲がいい。並んでいると、微笑ましいくらいだ。
「そう言うカズは、ずいぶん調子よさそうだけど?」
「ほんと、朝そんなに笑ったりするの、珍しいですよ。何かあったんですか?」
突然自分に話を向けられて、カズはきょとんと目を丸くした。煮物を口に運んで、首をかしげてみせる。
「笑ってたじゃん。僕たちのこと見て。」
「顔色もなんか、明るいっていうか……」
何かあったかと言われれば、きっとあの変な客のことなのだろう。しまりのない笑顔を思い浮かべて、カズは眉根を寄せた。
「昨日……客が、な。変な奴やったとよ。そんせい、かも。」
「あの、お前に話しかけてたあれ?」
ずいぶん無謀なことをと思っていたから、よく覚えている。翼の言葉にうなずくと、二人は身を乗り出してきた。
「な、なん?」
にっこり微笑んだ翼が、驚いて少し身を引くカズの着物の袖をぎゅっと掴む。
「まぁまぁ、いいじゃん。話してみなって!」
少し心配そうな将とは対照的に、翼は完全に面白がっている。これはきっと話すまで解放されないだろう。カズはため息をついて、もう一度昨夜のことを思い返した。
「なんだ、悪い人じゃなかったんですね。よかった……」
聞き終えた将はほっとした表情で。
「ふーん……」
一方翼は面白くなさそうにむっと眉根を寄せている。自分は嫌な客に当たって苦労していたのだから、当然の反応だ。
「なんかそいつ、怪しくない?カズ、あんまり気ぃ許さない方がいいよ。」
しかしそうではなく、カズを心配しての表情だったらしい。カズは少し驚いて目を丸くした。その驚きを違う意味にとって、翼が続ける。
「まぁ、わかんないけどさ。もしかしたらそうやって気を許させて、手なずけようとしてるのかもしんないだろ?」
「え!?そ、そんな……」
不安そうに瞳を揺らす将に、カズも少し首をかしげた。浮かぶのは、あの言葉。
「せめて今夜くらいは、カズさんに幸せになってほしか。」
切なげにそう言った、あの表情は、演技で作れるものなのだろうか。
「そげん器用なこつ……できる奴には見えんかったとやけど……」
つぶやいたカズを、二人がじっと見つめる。すぐに目を伏せて、翼は少し苦しそうに、口の端をゆがめて笑った。
「うん……けど、さ。どっちにしろ、誰にも気を許すべきじゃないよ。所詮、僕たちは陰間だから。」
珍しく自虐的な翼に、将も辛そうに顔を伏せる。カズのためを思って、言いづらいことをあえて言ってくれた翼に、カズはこくんとうなずいた。
自分は、陰間だ。客を選べるわけじゃない。それがどんな奴であろうと、金さえ払えばそれでいいのだ。
生きていくために、自分を守るために。
今日もカズは心を殺して、名も知らぬ誰かを、客にとる。
揺れかける心、その刹那。
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