静寂は突然やって来た。本能が足を止める。
背中の柔らかな感触、清潔な空気のにおい、まぶたの向こうからうっすらと感じる日差しの温かさ。ここはあの場所とは違う。
逃げ切れた。もう、大丈夫なんだ。
Rainy shadow 3
最初に見えたのは、濃く深い森のような緑色の天井。次は真っ白なシーツ。腕につけられたチューブの先には、液体の入った袋がぶら下がっている。
その向こう、白いカーテンが揺れる窓辺に、その人はいた。
風が黒い髪を散らす。暖かそうな日の光に、耳たぶのサファイアが煌いていた。
「…………」
声にならない声で、その人を呼んだ。名も知らないのに、これだけはわかる。
「ん……何や、気がついたと?」
まっすぐに向けられた黒い瞳。両耳で輝く青い宝石。
王。彼が自分を救ってくれた。
忠誠を誓おう。「狼」ではなく、「高山昭栄」と名付けられた、ただの自分として。
こうして彼は生まれ変わった。
一度目の生は、実の母に捨てられた憐れな子ども。
二度目の生は、闇に捕らわれし餓えた狼。
そして、三度目。
彼は牙を研ぐ。
青い光で彼を導く、ただひとりの王のために。
―――は、はぁ、……っは、
男は走っていた。外灯すら置かれない裏路地。静寂が耳に痛いほどで、常ならば自分の身を隠し味方してくれるこの暗闇が、今夜に限ってはひどく恐ろしい。
―――は、は、
上がりきった呼吸の音が世界中に響いている気がする。息を殺したい、けれど既にそんな余裕は残されていなかった。
逃げなければ。どこへでもいい。とにかく前へ。少しでも遠くへ。
追ってくる足音も銃声も聞こえない。それが逆に怖い。肩も膝も強ばってうまく動かないし、顎が上向いて余計に呼吸がつらい。悪循環だ。
―――はぁ、ひ、はっ、ひ、
気管がひどい痛みを訴えてくる。血を吐きそうだ。力を抜かなければ。わかっているけれど、どうしようもないのだ。捕食者を感知した、本能的な恐怖。抗えはしない。
あいつらが、追ってくる。
瞬きすら忘れて走る、血走った男の目に涙が浮く。道などとっくにわからないが、それでも無茶苦茶に腕を振り足を押し出して、とにかく進む。
ふと、月が翳った。世界を暗闇が支配する。
その闇の中、男の前方に、水色の瞳が現れた。
ひっ、と息を呑んで、それきり男の足が止まった。足だけではない。身体中、視線すらも、凍りついたように動かない。
自分の指先すら見えないこの闇の中で、なぜそれだけが見えるのかはわからない。だが確かに男は聞いていた。獲物の道の先を塞ぐ、闇に浮かぶ水色の瞳の話を。
「……随分のんびり走っとったな。あんまり遅くて寝るとこやった」
すぐ後ろで、ひどく澄んだ、けれど触れれば切れそうなほど冷えた声が聞こえる。男の全身が震えた。今この瞬間まで、背後には何の気配もしなかったのだ。
スル、と影が横を通り過ぎて行く。深く甘い、頭の芯が痺れるような魅力的な香りがする。香水でも薬品でもなさそうで、それがあの声の持ち主の香りなのだろうか。
今、自分は確かに命が終わる瞬間を迎えようとしている。その恐怖、衝撃、絶望、全ての感情が大きすぎる波のように弾けて、男はそんなどうでもいいことを考えた。
ゆっくりと月が顔を出し、涙すら乾いた男の目に、前を塞ぐ人影を映す。
年の頃でいえば、二十と少しくらいだろうか、若い男が二人。水色の目を持つ男は背が高く、能面のように無関心な、それでいて刺すような殺気を湛えた眼差しで佇んでいる。彼を後ろに従えて、もう一人が大きな瞳を微笑ませた。
「すごか汗やな。状況は十分把握しとるみたかやし、言っておきたかこつはあるか?」
濡れたような黒髪が闇に溶けるからだろうか。月に青白く照らされた肌と黒い瞳が浮かび上がって見える。長い睫がゆっくりと瞬いて、薄めの唇が声を紡ぐ。
その全てが、妖艶で、扇情的で、美しい。
ごく、喉を鳴らした男に、水色の瞳が険しくなった。半歩前に出て、彼の主君にピタリと寄り添う。黒い瞳の笑みが深くなる。
男が最後に見たものは、右に一つ、左に一つ。
二人の死神が分け合った、二つの青い光だった。
「あーあ。」
パシュ、微かな音に続いて、重い物体の倒れる音。薄汚れたアスファルトに広がっていく液体を眺めて、カズはくるりと振り向いた。
「まだよかって言ってなかやろ。ヨシに怒られたらどげんすっと?」
サイレンサー付の拳銃を胸のホルダーに仕舞って、昭栄は拗ねた子どものように唇を尖らせる。
「だってあいつ、カズさんこつ変な目で見とるっちゃもん。ムカついた」
一瞬きょとんと瞳をまるくしたカズは、嫣然と微笑んだ。昭栄の首に腕を回して、鼻先を擦りつける。
「お前、独占欲つよすぎ。」
「だって、皆カズさんこつ欲しがる。カズさんが綺麗なのも可愛かのも、俺だけしか知らんでよかのに」
昭栄の逞しい腕に腰を引き寄せられて、吐息のかかるほどの至近距離で見つめ合い、カズはクフ、と満足気に笑った。うっとりと唇を寄せて、囁く。
「アホショーエイ。お前しか、知らんに決まっとる……」
濃く漂う血の臭いと死の気配を傍らに、二人は夢中で唇を奪い合った。
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