「う゛ぅ、ぁあっ……ぅあ゛ぁあっ!!!」
何かに追われている。何かはわからないけれど、怖い。それだけはわかる。
「ぐぅ、あ……!!!」
怖い。怖い。助けて。
そう叫びたいのに。
Rainy shadow 2
「5番、10番、様子はどげんや?」
ドアの前に立つ二人の少年は、片手を上げて歩み寄ってくる城光に一礼を返した。
「まだ、全然やな。相当ヤク漬けにされとったらしか、ヒドかぞ。」
うなずいて、城光はドアの向こうを透かし見るように目を細める。中がどれだけ酷い状態かは、厚い扉越しでも聞こえてくる叫びや呻き、ギチギチと鳴る音でわかった。
その部屋の中には、先日カズが拾ってきた謎の少年がいる。カズの話によると、彼はどこかの組織から送られてきた暗殺者で、<ヘブン>を服用し<みずいろのかさ>を差していたカズを殺そうとしたらしい。
更に5番の調査で、彼の少年は<狼>と呼ばれる、<ヘブン>に不都合な人物の死の周りに必ず現れている、腕利きの暗殺者であることがわかった。
<狼>に<ヘブン>、<みずいろのかさ>、か……。
<ヘブン>というのは、最近この辺りでひそかに出回っている麻薬の一種である。
その名の通り、天国を見るというほどの強い開放感と同時に、暴力的な衝動や、ときには殺意衝動を高める。同時に副作用も重く、効力が切れると意識を失うか、最悪の場合には死に至る。依存性も非常に高い。
総じて非常に厄介な代物だ。
カズや城光たちの所属するファミリーでは、昔からドラッグの一切を禁止してきた。テリトリーでのそれらの流通を取り締まることも彼らの任務の一つで、<ヘブン>は中でも危険度が高く、カズ自らが調査チームを率いている。
<ヘブン>はまだ、一般人の手に渡るほどメジャーなドラッグではない。裏の世界のごく一部の人間が手にし、しかしその多くが衝動的で凄惨な事件を起こしていた。
警察はいまだ、ドラッグが関わっていることは勘付いているにしろ、証拠や売人、流通ルートなどには何一つ辿りつけていない。参考人となる犯人が、事件直後にショック死するか、またはその数日後、禁断症状の心臓発作で死んでしまうからである。
しかも、<ヘブン>は体に残らない。検出できないだけなのかもしれないが、どちらにしろ、司法解剖をしても成分の解析すらできず、警察の捜査は進む兆しもなかった。
そんな中で、蛇の道は蛇。カズたち調査チームは、売人との接触に成功し、<ヘブン>の現物を手にするまでに至っていた。
このアジトは、次期ボスと目されるカズと、もう一人の後継者候補である城光、そして多くがまだ年若い、二人が信頼する直属の仲間たちだけが入ることを許された、調査チームの隠れ家である。
「ヨシ、ドクターが……」
「お〜ぅ、診察や。ぼん、ガキは生きとーか?」
先導の少年を押し退けるようにズカズカと歩いてくる、薄汚れた白衣を着た狸のようなとぼけたオヤジに、城光が姿勢を正した。
「尾崎さん、いつもお世話になっとります。ぼんって呼ぶんはカズだけにしてください。」
「何や、毎回毎回……ぼんはぼんやろうが。」
城光のお決まりの台詞を、これまたお決まりでしっしっと手を払う尾崎に、城光は困り顔で頬をかいた。
尾崎ドクターは、カズたちファミリー御用達の闇医者で、このアジトへの出入りを唯一許されている外部の人間である。見た目はただの小さいおっさんだが、外科手術から内科処方まで、その知識は広く技術も確かだ。
カズや城光が生まれたときの助産師も尾崎である。それから今までずっと世話になっている相手なので、どうにも頭が上がらない。カズは憎まれ口を叩いたりもするが、カズと自分では立場が違う。
「あっちは、どげんなりました?」
城光の言葉に、尾崎が眉根を寄せた。
「あいつか?死んだ。まぁもともと心臓に負担かけとったみたかやし、意識取り戻したら一瞬やったな。」
顔を曇らせた城光を見上げる尾崎の目が弧を描く。城光の苦手な、真意の測れない笑みだ。
「幸運やったんじゃなか?ぼんらは情報が手に入った上に粛清もできた。あいつが溜め込んどった<ヘブン>の山げな在庫も押収して、おかげであんガキは死なずに済みそうや。新しか情報源は確保できて……な?」
どんな組織においても、規律を守れないものは存在する。彼らのファミリーでも同じで、<ヘブン>に手を出した者がいた。普段からあまりいい噂の多くなかった、小太りの中年男だ。
城光が彼の自宅に踏み込んだとき、彼とその仲間たちは売春婦数人を壁につなぎ、ナイフでダーツ遊びをしていた。全員が<ヘブン>の与える高揚感に酔って、すでに的である女性全員が息絶えていたことにも気付いていなかった。
別働隊で彼らが<ヘブン>の保管をしている地下倉庫を押さえたカズは、報告を聞くなり激昂し、全員を極刑に処すと宣言した。凄惨な場面と醜悪な命乞いを目の当たりにした城光も、それを止めなかった。
取り巻き連中は見せしめとして処刑。中心だった男には、死なない程度のわずかな<ヘブン>を与えながら拷問を繰り返し、情報を全て吐き出させた後、二度と口を利けないよう尾崎に処置を頼み、一切の<ヘブン>の投与を絶った。
それが、カズが少年を拾ってくる前日のこと。
五日と経たないうちに、<ヘブン>の禁断症状に意識をなくし、死に至ったということだ。
「……思い出したくもなか、あげんこつ、した奴に同情なんぞしとりません。こうするんは、カズの意思であり俺の望みです。」
ファミリーの名と誇りを汚した裏切り者。彼らがなぶり殺した女性たちと同じように壁につながれ、助けも呼べず、狂いながら死ねばいい。冷酷な二人の態度と決定は、多くの仲間を震えさせ、そして支持された。
規律を守れなかった彼らの信念の弱さには怒りを覚えたが、本当に憎いのは<ヘブン>とそれを流している誰かだと城光は思う。多分カズもそうだ。けれど、裏切りは裏切り。上に立つ者として、目を瞑るわけにはいかなかった。
つい彼らの死を悼むような表情をしてしまった自分を振り切るように、冷たい声音でそう言って、目の前のドアを開けた。
絶え間なく、獣のような呻きが響いている。
「最後に<ヘブン>ば投与したんはいつや?」
逃亡と自傷を防ぐため、四肢をベッドに括りつけられてなお、ミシミシ、ギチギチ、ベッドの柱と骨が嫌な音をたてるほどに、少年は全身で暴れていた。背を反り、手足は力の込めすぎで血管が浮き出し、焦点の合わない目は見開かれて血走っている。
舌を噛まないようはめられた拘束具によって言葉は紡げないが、その喉は常に唸り声を発し続けていた。
「四時間前に、指示された通りの量ば投与してます。」
普通ならば、効果が切れてここまで錯乱するにはまだ早すぎる。絶対的に、量が足りないのだ。
「こりゃ、手こずるぞ。どんだけ飲まされたらこげん状態になるとや……」
副作用や依存性の強い麻薬は、一気に絶つと死を招く。だから少しずつ量を減らして、時間をかけて抜いていくしかない。大量に押収した<ヘブン>で少年の毒抜きを図っているが、尾崎が眉をひそめるほどに、彼の中毒は深かった。
「在庫はまだ充分あります。少し量ば増やしますか?」
それは毒抜きの長期化につながる。この暴れ具合でも危ないが、見たところ充分に栄養を与えられてもいないこの小さな体が、どこまで持つか不安だった。
苦い表情のまま、暴れる体をものともせず、血と脂の滲んだ手首や足首の治療を済ませる。点滴の付け替えもして、城光を目で促して一度部屋を出た。
「あんガキ……常にあげん様子なんか?」
思案するように腕を組んだ尾崎の問いに、城光が姿勢よく扉の前に立つ二人を見る。この部屋の見張りを担当する彼らの方が、自分よりも詳しく知っているはずだ。
「大体はあげん調子で、唸ったり暴れたりしとります。」
「ばってん、不思議なんは、カズがおると……」
確認し合うようにお互いを見遣る二人に、城光と尾崎が訝しげに眉を寄せる。そこへちょうどよく、件のカズがやって来た。
「あれ、ヨシ?なんや、尾崎のおっさんもおるんか。どげんしたと?」
カズの後について、再びその部屋へ入る。彼が少年のベッドの傍らに座り、その手を口にはめられた拘束具へ伸ばしたのを見て、尾崎と城光は静止の声を上げようと口を開いた。
「大丈夫や、黙って見とれ。」
こちらを見もせずに言うカズに、二人は腑に落ちないながらも言葉を飲み込んで、入り口付近まで下がった。
もう幾度か外しているのだろう、カズは慣れた手つきで拘束具を外す。突然の自由に少年の口は少し喘いで、叫んだ。
「ぅ、あ゛ぁ……来るなぁああ!!」
近距離での渾身の叫びにも驚きもしなかったカズは、宙を彷徨う怯えた瞳をのぞきこむように身を乗り出す。
「どげんした?」
「嫌や、来るな来るな、くるなっ……!!!」
「追いかけられとると?」
その言葉に、少年の視線がカズに向いた。まだ焦点の合わない瞳で、声だけを頼りに、すがるように叫ぶ。
「ぃやや……すけ、て、助けて、怖か……っ!!」
カズの手が、少年の汗で汚れた頬をためらいもなく包んだ。
「助けちゃる。言ったやろーが、うちに来るかって。俺がおるけん、怖くなかやろ?」
突然、その部屋に静寂が訪れた。叫びも呻きも一切が止んで、点滴の落ちるかすかな音さえ聞こえるほどのその静けさは、まるで空間ごと一瞬で摩り替わったようで。
「……ぁすけて、くれると……?」
城光も、尾崎ですらも、息をのんだ。
少年のカズを映す瞳が、上げた声が、その表情が、生まれたてのように無垢なものに変わっていた。
「助けちゃる。どうや、もう何も追いかけて来んっちゃろ?もう怖くなかな?」
「……ばってん、また来るかもしれん……」
「そうやな、わかった。なら、そげんこつなかように、ここにおる。」
まるで聖母のような慈愛に満ちた微笑を浮かべるカズが、自分たちの知っているカズとは違う人間に見えた。
母を頼るような目でカズを見つめる少年と、幼子を抱くような柔らかな笑みで少年を見つめ返すカズ。無垢で清らかな、そこだけ洗われた様な空気が支配して、城光たちは声もなくその場に立ち竦んでいた。
「怖かやった……まいにち、いっつも、くすり、飲まんとおかしくなる。飲んだら、怖かこつ、せんといかんと。」
少年の言葉に、カズがうなずく。
「くすり、みんなが飲まんといけんのに、ジャマする奴がおるって。だけんおれ、もういっぱい、怖かこつしたっちゃ。やだっていったら、みんなが痛くされて。だれも、助けてくれんかった……」
たどたどしく紡ぐ少年は、カズを見つめたままポロポロと涙をこぼした。栄養不足でパサパサの髪を優しくなでながら、カズが首をかしげる。
「ひどかな……誰がそげんひどかこつさせたと?」
「だれかは、わか、な……いっつもみんなでおる、暗かとこから、連れて行かれる部屋に、おる……」
「男?どげん奴か教えてくれんと?俺がそいつば倒しに行っちゃるけん」
うんとうなずいて、カズが促すままに、少年は口を開いた。しかしここまできて、それまではカズだけを映し続けていた瞳がゆらゆらと揺れだして、喘ぐように息を吸う音だけが響きだす。
尾崎の顔色が変わるのを見て、城光も身構えた。二人が動く前に、カズは少年に向かって微笑んだ。
「うん、わかった。疲れとるんに、ずっと話させてごめんな。寝らんや?ずっと逃げて来て、疲れとるもんな。」
ゆっくりと、少年の吐息が落ち着いていく。
「おやすみ」
カズのその一言で、少年はすとんと眠りに落ちたようだった。
再び拘束具を口にはめて、カズが部屋を出る。体が待ち望んでいたのだろう、少年は驚くほど安らかな表情で深く眠っていた。
そっと扉を閉めた城光に、見張り役の二人が視線を寄越した。
な、不思議だろ?
「大分よくなってきとるっちゃね。今日はいつもより長く喋った。」
「そう、なんか?……いつもって……?」
5番に渡された調査書に何やら書き込みながら言うカズに、幾分衝撃の覚めやらない頭で城光が聞く。
「あー、あいつ俺んこつ覚えよらん。まぁ仕方なかかもしれんっちゃけど。だけん毎回同じとこから話し始めんといかんと。なかなか話が進まん」
あっさりと答えるカズは、普段と変わらない、つんとして気の強そうな表情に戻っている。城光が半ば唖然として眺めていると、尾崎がふむと鼻を鳴らした。
「ぼん、お前そげん技術どこで習得したとや?」
<ヘブン>ほどの強い禁断症状に錯乱する精神を静め、いとも簡単に少年から情報を聞きだした。城光たちの知るカズは、そんなことをやってのけるほど器用な人間ではないはずである。
「技術っちゅーか……そげんもんは知らん。ばってん、あいつ、赤ん坊げな顔するけん。あげん怯えて暴れるんも……母親がおったら安心するんかなって、そげん風にしとるだけったい。」
ぶっきらぼうな口調に隠された照れは、城光のよく知るもので。
あぁ、そげんこつか……。
情報を聞き出すために、カズが突然したたかで小ずるい知恵を身につけてしまったように思ったが、そうではなかったらしい。
カズの中では、あの少年も自分の仲間なのだ。おそらく拾ったと言ったあのときには、もうすでに。
「外」への警戒心の強いカズにしては随分珍しく、あの少年に誰よりも早く馴染み庇い立てするのも、どこか、捨て置けないものを感じたのかもしれない。それが「母親の存在」に関わるものなのだとしたら、城光には何も言えない。
カズは何も変わっとらん。いつものカズったい……。
おかしかったのは幼馴染ではなく、仲間に入れると言うカズにうなずきながら、少年を「情報源」としか認めていなかった自分だったのだ。
よかった。ようやく地に足が着いたような気持ちで、城光は大きく息をついた。尾崎はおもしろそうに顎ヒゲをなでながら、カズを見上げる。
「なるほどなぁ。ぼんにとっての母親像はあげん風っちゅーこつか。よかもん見たわ」
「な……何、その言い方!何がおかしかやっこの狸!!」
別にぃ〜?とわざとらしく語尾を上げてからかう尾崎に、カズの顔がどんどん赤くなる。羞恥と怒りと、放っておいたら手も足も繰り出しそうな雰囲気に、城光はようやく彼らしく、カズを取り成しに向かった。
next to 3