運命が動く日は、必ず雨が降っていた。
生母に捨てられた日、養父が死んだ日、組織に入れられた日、初めて「仕事」をした日。
そして、あの人に出会った日も。


Rainy shadow 1


 ザ――――
 絶え間なく降り続く雨が、街の音を消し去る。視界が白くけぶるほどの雨の中を、一つの色がフラフラと揺れていた。
 目の覚めるような水色。薄暗い裏路地を、たった一人歩く少年の差した傘の色だ。
 もとより人通りの少ないこの道を、こんな日に歩く物好きなど多くない。もう数十分歩いているが、誰一人ともすれ違うことなく、妙に静かで、それでいてまとわりつく湿気が妙に窮屈な空気を生んでいた。
 息を潜める街を揶揄するかのように、水色の傘が揺れる。それを握る少年の足取りは気だるげで、小さな川のように雨水を溢れさせる道に、高価そうな革靴を惜しげもなく浸している。
 靴だけではない。跳ね返った雨に裾が濡れたそのスーツも、きっちりとプレスのかかったシャツもネクタイも、まだ幼い体には不相応なほど高価なものだ。それなのに少年の足取りには、急ごうとする気配もなかった。


 少年の名は、功刀一。
 少し長めの黒髪につり上がった大きな目。一見ただ可愛らしい少年のカズは、このKyu-syuという地方一帯を占めるマフィアのボスの一人息子という、その見た目に似合わない物騒な肩書きを持っている。彼の両耳で輝くサファイアのピアスが何よりの証である。
 生まれたときから現在まで、最有力後継者候補として手厚く守られ、育てられてきた。親や仲間の愛情は疑わないけれど、常に周囲に人がいて、少しも一人になれる時間がないのは窮屈で嫌だった。
 カズにとって、一人になれる時間は何よりも希少で貴重。常に張り付いている人々の目を盗みようやく得たこの自由な時間の価値は、高価な衣服などと比べるべくもなかった。

 脳裏には、真っ白なベッドに横たわる青白い顔色の父の姿。
 望めば何でも叶うけれど、カズはそうして我侭に甘やかされることを喜ばなかった。ボスの息子として恥ずかしくない、本当に強い男でありたいと願っているし、その努力も惜しまない。
 おかげでまだ13になったばかりだというのに、目の前で父親が倒れたこんなときも、人前では涙も流せない。あきれるほどに強がりで、そしてそれを達成できる精神力を身に付けてしまっていた。
 父の病は、いますぐ命がどうこうというほどではないにしろ、この先に全く憂慮のないものでもないらしい。しばらく一人になりたくて、病院からひっそりと抜け出して歩いている。
 父を亡くすということは、子としての純粋な悲しみだけでなく、ファミリーのボスを継ぐという現実をも突きつけられることを意味していた。
 ボスになりたいと思ったことはなかった。父のことは男として尊敬しているし、ファミリーの仲間も大切だ。しかしボスという肩書きは、自分には重過ぎる。少なくともカズ自身はそう思っている。
 だからこそ、今まであくまでも「後継者候補」という立場を崩さず、かけられる期待や責任をのらりくらりとかわしてきたというのに。
 倒れた父の背中、もしものときはわかっているなと諭す声、それに対して怒鳴った自分、当然のように自分を取り巻いて頭を垂れる幹部の連中。
「重か……」
 せっかく一人になれたのだから、泣けたらいいのに。不器用な自分は、泣き方を忘れてしまったらしかった。




 パシャ、パシャ、とゆっくり進んでいた足音が、不意に止まる。そのまま焦る風もなく、カズは振り返った。
 そこには痩せた、幼い風貌の、カズより幾分小さな少年がぼんやりとした様子で立っていた。茶色がかった黒髪が、雨に打たれ頬や首に張り付いている。
 この雨の中で、気配も物音も一切なかった。おそらく自分でなければ気付きもしなかったであろう。それは完璧な、殺し屋の技術。
「ころす」
 抑揚のない声。少年の瞳は飢えた狼のような殺気に満ち、一瞬でカズに肉迫した。その圧倒的な速さと殺意で多くの人間の血を吸ってきたであろうナイフが、カズの首の皮膚に触れる。
 しかし次の瞬間、少年の身体は路地の壁に叩きつけられた。鈍い衝撃音を追うように、カズの背後で高い金属音。少年の小さいが鋭く鍛えられたナイフが、主とは真逆の路地の壁に当たり、落ちる。
「……っ!!!」
 衝撃に声もなく咳き込む少年の肩を、カズは容赦なく蹴りつけた。地に転がった少年は、瞬時に飛び起きて身構える。その瞳は、カズへの殺意で凍てつくほどの熱さをはらんでいた。
 どこか脆さを含んだその強い視線にも、カズは表情一つ変えなかった。ナイフを弾き飛ばし少年を蹴り飛ばしたときと同じ冷静さで、傘をフラフラと揺らして歩いていたときと同じ表情で、低く飛ぶように駆けて来た少年のこめかみを踵で蹴り弾く。
「かはっ……!!」
 ぐらんぐらんと揺れる視界に倒れ、うずくまった腹を革靴で思い切り蹴り上げられて、少年は血を吐いて投げ出した指先を震わせた。
「動かん方が身のためやぞ。脳が揺れとるけん、気持ち悪かやろ?」
 呼吸すら辛そうにむせこむ少年にもう起き上がる力がないのを見て、カズは肩を蹴り上げるようにして少年を仰向けにする。合った瞳には、カズへの殺意と、動かない体への苛立ちや悔しさが浮かんでいた。
「こ、ろす……」
 ガツっと音がするほど、強い力で膝を踏みつける。少しでも動けば、そのままそこを砕けるほどに。どうせ動けやしないだろうから、抑制というよりは屈辱を与えるための行為だった。
「足一本、振り払いもできんで、どげんして俺ば殺すと?」
「……ころ、す、<みずいろのかさ>、……」
 うわ言のように繰り返す様子に、カズの目元がピクリと引きつる。
「クスリか。そん様子やと、<ヘブン>やな?」
 傘を差したまま、一つの乱れもなく見下ろすカズの言葉に、焦点の曖昧な濁った目が揺れて、口の中で何事か呟いた。ぼろぼろの身体は雨と血でドロドロになって、麻薬漬けの崩れた思考で、それでも少年は生意気に睨みあげてくる。
    ふん……おもしろか。
 十になるかならないかに見える子どもだが、気配の消し方や素早い身のこなし、急所を狙う正確さ。殺し屋としては上等な技術を身に付けている。ただの捨て駒や当て馬というわけでもなさそうだ。
 このタイミングにこの相手。自分を狙う人物も、かなり本気だということだ。
    さて、どげんしてやろう。
 傷は負わなかったとはいえ、この少年は自分の命を狙った。この場で殺したって構わない。見逃してやったとしても、どうせ自分以外の誰かに口封じで殺されるのがオチだ。
    ばってん、<ヘブン>に、<みずいろのかさ>か……。
 この少年が持っているはずの情報は、殺してしまうには惜しいものだった。彼が知っていることがたとえほんの少しでも、自分にとっては大きな利益になる。
 殺すわけにはいかない。手放すわけにもいかない。
 何よりこれほど明確に格の違いを見せつけられて、まだ抵抗しようとするこの気の強さは、嫌いではなかった。
「うちに来るか?」
 自分を見上げる瞳が、数瞬置いて驚きに染まる。クスリによって高められていた異常な殺意と闘争心が抜け落ちて、少年はただぼんやりとカズを見つめた。
 そのとき初めて、カズはその少年の瞳が、自らの傘と同じ、目の覚めるような水色をしていることに気付いた。




「……あ、カズ!!おい、ヨシに知らせろ!!カズが帰ってきた!!」
 カズはうちに来るかと言ったきり、何も言わず背を向けた。立ち上がることさえ覚束ない少年に手を貸すでもなく、それどころかすっかりその存在を忘れてしまったかのように、元通り傘を揺らして気だるげに歩く。
 しばらく歩いていると、カズを探していたのか、数人の若者が雨の中を駆け寄ってきた。怒ったような安心したような彼らの表情は、カズの背中をふらつきながら追ってくる少年に一瞬で強張る。
「なんや、きさん……!!」
 懐に手を伸ばすのを視線で止めて、カズはついとあごで後ろを指した。
「拾った。手ぇ貸してやれ」
「な、カズ!?」
「俺が拾ったって言っとーと。何ぞ文句あるとや?」
 カズの鋭い声と視線に、カズより背も高く体格のいい彼らがぐっと怯む。しかしその中で比較的優しげな風貌の少年が、明らかな警戒の目で少年を睨みながら口を開いた。
「ばってん、」
「カズ!!!」
 バシャバシャと乱暴に水をはねる音と共に、路地の角から背の高い少年が飛び出してきた。彼の登場に、カズを囲んでいた若者たちが左右に分かれ道を作る。
「ヨシ……」
 傘も差さずに駆け寄ってきた幼馴染、城光与志忠に、カズの視線が柔らかく緩む。しかし一方の城光は、カズの顔を見るなり、バシッとその頬を張った。
「こげん雨ん中一人で、何しとった!?こんアホが!!」
 城光に怒鳴られたのも、叩かれたのも初めてだった。あまりの驚きに怒るのも忘れ、ただ目を丸くして見上げるカズを、城光はぎゅっと抱き寄せる。
「アホ、心配させやがって……今がどげん危険な時期か、わからんわけじゃねかろーが!お前に何ぞあったら、俺はどげんしたらよかか……っ」
 抵抗せず腕の中にいるカズの頭をぐりぐりとなでて、しばらくしてようやく落ち着くと、城光が困ったように笑った。
「悪か、痛かったか?服も濡れよったな。」
 叩かれた頬は少し熱を持っていて、湿った服は冷たかったが、珍しく取り乱した城光の様子が嬉しくて、カズはふるふると首を振ってみせる。微笑んでもう一度カズの頭をなでて、そこで城光はようやくカズの後ろの少年に目を止めた。
「……?」
「拾った。入れてもよかやろ?」
「ダメや!!カズ、ヨシも聞かんや、あいつは……!!」
 怪訝な顔の城光を見上げてにっと笑うカズに、先程の少年が険しい声を上げる。むっと眉を寄せるカズを止めて、視線はカズの背後へ向けたまま、その穏やかな声だけを仲間に向けた。
「どげんした、5番?お前がそげん風に怒鳴るんは珍しかやな。」
 5番と呼ばれた少年は、誰よりも優しく和を重んじ、相手に意見するときも気配りを忘れない。諭すような城光の口調に少し落ち着きを取り戻した彼は、しかしまだ瞳には剣呑な色を残して、雨に打たれぼんやりと立っている少年を見据えた。
「……そいつは、<狼>ったい。カズ、お前ん目は確かやと思っとる。ばってん、そいつだけはいかん。仲間として信用できん!」
 5番の言葉に、城光ですら驚きに目を見張った。
「<狼>やと……!?こげんガキが、まさか……」
「5番、それは確かか?」
 思わず声を上げた若者の言葉を鋭く遮って、城光が少年へ向けた目元を険しくする。
「報告はまだしとらんかったばってん、確証もなくこげんこつ言わん。<ヘブン>の調査は俺の任務ったい。」
 明確な返事に、城光の目が据わった。
「吐かせるだけなら、何も仲間に入れんでもよか。そげんこつやな?」
 本能で危険を感じ取り、少年の目に仄暗い炎が点る。
 一触即発の空気を、ぶんっと振られた傘の水色がかき消した。

「それが何や?もう俺は決めた。こいつは俺が拾った、俺のもんや。狼だろーが猪だろーが、手懐ければよかろーが!」

 ガキ大将みたいな論理で、王様のようにふんぞり返って、鮮やかな水色に負けないくらいに光る笑み。全ての視線を吸い寄せる、頼もしいその表情と言葉に、少年もまた目を奪われた。
 二度、三度、瞬きをしても消えないほどに焼きついたカズという存在が放つ輝きが、クスリによって細く繋ぎとめられていた意識を解放する。
 両耳のサファイアが外灯に煌く。眩しそうに目を閉じて、そのまま少年は水量を増した道に崩れるように倒れた。


 しばらく思案するように少年を眺めていた城光は、ため息をついてうなずいた。
「…………お前がそげん言うなら、いかんとは言えんっちゃろ。」
 カズと城光の視線を受けて、後ろで控えていた若者たちは渋々と少年を担ぎ上げ、並んで歩き出す二人の後に続いた。



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