その日は朝から大騒ぎだった。
従兄弟とすっかり打ち解けて、子どもらしい悪戯を覚えた梵天丸が、よりにもよって柿の木で木登り競争などしだしたのだ。
案の定、いくら子どもとはいえ二人分の重みに弱い柿の枝が耐えられるはずもなく、揃って落ちて尻餅つくやらあちこち擦りむくやら。
新しく近侍となった鬼庭綱元は楽しげに笑って見ているだけだし、喜多はお前が受け止めてさしあげないからと小十郎を叱るし、ぴぎゃーと泣く時宗丸はこうるさいし。挙句の果てには当主・輝宗公まで飛んできて、やんちゃで元気になったと梵天丸を猫可愛がり。
嫡男に怪我をさせたのだから叱責は免れぬかと思えば、呼び出された先では輝宗と遠藤基信がにこにこしながら梵天丸の腕白話を聞きたがるだけで、拍子抜けした。
これだけ慌しかったのだから、残りの時間は穏やかに過ぎてくれるといい。そう、疲れた眉間をほぐしながら思っている矢先のこと。
竜の雛 7.5
雪の庭に差す光がだんだんと黄色味を帯びて眩しい、早春。
輝宗の召致から戻る途中、サクサクと庭を進んでいた小十郎はふと足を止めた。背後、本棟の廊下、欄干の奥に、確かな人の気配。それも、漂う香からして、高貴な女性の気配だ。
本棟の裏手、西の端になるこの庭は、当然整えられてはいるけれども、女性がわざわざ好んで眺めに来るほどの場所ではない。近くに部屋はなく、この先には離れがあるだけだ。
半身を引いて庭に控える形をとると、サラリと衣擦れの音と共に、伏せた視界の端に、絢爛な打掛の裾が映った。
「……お主、この先へ向かうのか?」
女性にしては低めの声が、少しの警戒を孕んでいる。それは間違いなく、この庭を進むことが何を意味するのか、知っていての反応だった。
「は。某、片倉小十郎景綱と申します」
頭を垂れたままの応えに、はっと息を呑む、その女性。
「そなたが……梵天丸の、傅であったか」
流れる黒髪の美女、奥羽の鬼姫。名を義、梵天丸の母君である。
それ以外にはないだろうと思う一方で、これほど意外なこともないとも思える。
何しろ、小十郎が梵天丸の傅役になり数月、彼女が長子に会いに来ることは一度もなかったし、手紙一つ、言伝一つ預かったこともなかった。
口さがない噂などに関心はないけれども、それが事実なのだと薄々感じさせるほどには、疎遠な親子。
その母君が今、ここにいる。
どう捉えていいのか戸惑いを捨て切れない胸の内は、表には出ていなかっただろうけれども、義姫はまるで自嘲するような苦さを乗せて呟いた。
「…………梵天丸が、怪我をしたと。殿が騒ぐものだから」
「……」
思わず息せき切って駆けつけてきた、とでも続きそうな声色だ。
「力及ばず、申し訳ありませぬ。離れへおいでであれば、先導仕りますが」
それならばこんなところで立ち往生せずとも、顔を見て、やんちゃな擦り傷だらけの姿を見て、叱るなり笑うなり、そうして安心すればいいのに。
そう思って申し出たことは、応えのないまま、問いで誤魔化された。
「……のう、片倉と申したか。そなたが傅についてから、梵天丸は如何過ごしておる?」
名を聞いて浮かぶのは、鍛錬に汗する真剣な表情と、あどけない悪戯に胸を躍らせる稚い笑み。そっと袖を握ってくる小さな手。穏やかな記憶。
「剣を、日々懸命に。随分と体力もついて、最近では馬に乗りたいと仰せになるほど。悪戯も覚えて、毎日元気に飛び跳ねていらっしゃいます」
「悪戯を……梵天丸が?」
「如何にも。今日の騒ぎも、時宗丸様とどちらがより胆が据わっているかと言い合いになり、柿の木へ登って落ちられたもので」
切れ長の吊った瞳が、丸く見開かれている。ゆるゆると視線を外して、口元を隠して目を閉じた義姫は、
「………………そう、そうか。あの子がそのように」
感極まったとしか言いようのない声だった。小さく何度も、そう、そうか、と呟くその姿は、とても「異相の息子を厭う母君」には見えない。
会えぬ事情があるのだろうか。少なくとも小十郎には、そちらの方が妥当に思えた。
離れへ戻ると、梵天丸は書き物を、足を挫いた時宗丸はごろんと横になって昼寝をしていた。
常ならば「主の前でだらしない」と檄を飛ばすところだが、小十郎は何も言わずに梵天丸の横へ座る。意外だと言わんばかりのきょとんした顔で見上げてくる梵天丸に、
「菓子が一つしかありませんので、怠け者はそのまま寝かせておきましょう」
温かい茶と、菓子を差し出す。
春を待つこの時期に、梅の花を模した餡菓子。ふんだんに使われた砂糖の甘味と、しっとりした口当たり、そして見目の華やかさ。どこをとっても上品で風流な品だ。
「これ、は……」
これを、そなたに渡しておこう。
梵天丸の手が、視線が、その菓子に触れて止まる。
捨てるなり、誰ぞにやるなり、そなたの好きにして構わぬ。
ゆらりと、大きな瞳の中で、ささやかな波がさざめいた。
……けれど、それを渡したがこの義であるとは、ゆめ言うでない。
「…時宗には、内緒だな。」
にこりと微笑んで、菓子をゆっくりと頬張る。
口止めはされたけれども、一体これはどうしたのだと聞かれれば、素直に答えるつもりだった。身分も賃金も低い小十郎がこんな繊細で優美な菓子など用意できるはずもないことは明白だ。嘘をつく必要があることでもないのに、わざわざ隠し立てする方がおかしい。
家族に縁遠い自分でもわかる。母親が子に菓子を与えることの何が悪い。
「小十郎、ごちそうさま。」
しかし、梵天丸からはただの一言も、その菓子に関して問われることはなかった。
「そなたも、ほんにおかしなところが不器用だな。」
良人が苦笑交じりに言うのに、義姫はついと顔を背けた。
背に長く流れ落ちる黒髪の艶めきは変わらないのに、華の顔を飾る明るい笑みを終ぞ見ないせいで、物悲しい気持ちが拭えない。
「会いに行けばよかったのだ。せめて、口止めなどせずに、見舞いだと言ってあの菓子を渡してやればよかったのに」
「……今更私が母親ぶったところで、あの子の助けにはなりませぬ。」
義姫の白く細い指が、きつく袂を握って震えている。
彼女も、辛いのだ。けれどそれを口にはできない。
なぜなら、
「あの日、目を覚ました梵天の、あの子の痩せて震えた手を。振り払って握れなかった私が、母であろうはずがない」
懸命の看病の末、ようやく開いたいとし子の右目が白く濁り膿んでいる、その状態に驚いて、思わず手を払ってしまった。
あの瞬間の、あの子の絶望の表情が、目に焼きついて離れない。
決して、憎く思っているわけではないのだ。
ただ、どうしても、あの目が。あの左目が。
あの一つきりの目には、自分の弱さが、自分の罪が、まざまざと映し出されている。それが、怖くて。
「何が、奥羽の鬼姫よ」
ぽつりと落ちたつぶやきに、輝宗はそっと目を閉じる。
項垂れた妻の面を覆う長い黒が、纏わりついて闇へと沈める呪のようだった。
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