竜の雛 8


 小十郎が、竺丸の傅役に引き抜かれるらしい。

 さわさわと陰で囁かれていた噂が梵天丸の耳に入ったのは、桜の蕾さえほころび始めようかという頃。
 真っ青な顔でつまづきながらも駆け込んできた時宗丸のもたらした一報に、梵天丸は凍りついた。
「……うそだ。そんなの、うそに決まってる」
 ようよう押し出した声は震えていたが、出た言葉が耳に入って、改めて得心がいく気持ちになる。
 小十郎と竺丸には何一つ接点がない。小十郎が輝宗の小姓をしていた頃であっても、東の棟で育てられていた竺丸と関わりを持てるはずがない。梵天丸の傅役になってからは、言わずもがなだ。
 大体、当主である輝宗が自ら取り計らった人事である。小十郎と竺丸に元々の結びつきがあったわけでもないのだから、そう簡単に覆されるはずもない。
 梵天丸が廃嫡にでもなるならば、いざ知らず。
「おれだって、うそだと思った!でも、こじゅ兄、お方様と会ってたって。それでお方様がこじゅ兄をすごく気に入って、伯父貴に」
「時宗丸様。」
 言い募る甲高い焦り声を、鋭く遮る声がする。
「綱元」
 梵天丸が頼んだ書物を携えて、鬼庭綱元がひょいと廊下から顔を出した。常に快活な笑顔をのせているその表情は、さすがに渋く歪められている。
「滅多なことを、そんな大声で、障子も開け放したままするもんじゃありませんよ。下世話な連中の噂話なんぞ、わざわざ若の御耳に入れることもないでしょうに」
 やれやれと顎をさする綱元に、時宗丸はしゅんと俯きながらも、やはりまだ不安げに唇を尖らせる。
「だって、綱兄……」
 時宗丸とて、ただの陰口噂話に単純に飛びついたわけではない。
 『お方様の意向』その言葉が梵天丸にとって何を意味するか、幼い時宗丸でも十分にわかっているのだ。
「……綱元。その話、本当にただの噂話だと思うか?」
 ひたと向けられた梵天丸の目は、偽りは許さないと雄弁に語っている。
 何より、梵天丸は知っていた。
 小十郎と義姫には、接触があった。梵天丸が知る限りではたった一度だけ、それでも母が彼の才能を見出すには、十分な機会であったろう。
    この上更に小十郎さえも、奪られてしまうのか。
「……噂ですよ。そう思っておきなさい。お方様の御名を勝手に出して利用する阿呆もいるのです、何一つ真偽もわからない。どちらにせよ、あの律儀で堅物な小十郎が、一度お守りすると決めた若を蔑ろにするとは思いにくいでしょう?」
 どうだろうか。いくら律義者の小十郎でも、当代の奥方の意向を跳ね除けてまで、こんな片目の自分を選んでくれるだろうか。たとえ小十郎が拒否しても、周りはそれを許すだろうか?
 信じたい。でも。
    母上、あの菓子は、梵天を認めてくださったのではなかったの?
 ようやく取り戻したはずの光の世界が、一瞬にして遠のいていく。真っ暗に翳った視界の中で、梵天丸はただひとりを求めて歩き出した。


 時宗丸がな、おかしな噂を真に受けて、随分真っ青な顔をしているんだ。あんまり本気で不安がるから、梵天までちょっと戸惑ってしまったぞ。でも、違うよな。小十郎は竺を選んだりしないよな。梵天はちゃんと信じてるからな。あの菓子は、たまたま母上の機嫌が良かったとかで、別に深い意味なんて、なかったんだろう?
 そう、笑って言うつもりだったのに。

「小十郎の、うそつき!!お前も梵天を捨てるんだ!!梵天が片目だから、醜い忌み子だから、竺の方がかわいくなったんだ!!」
 畑でしゃがみこんでいた小十郎の背中を見た途端に、叫んでいた。
    奪られてしまう。
「梵天丸様?」
 あの手は、ためらいもなく右目に触れる。あの目は、まっすぐにこの顔を映す。あの唇は、二心なくこの名前を口にする。
 それがどれほどの僥倖か、全てを与えられている弟には分かるまい。美しい母には分かるまい。他の誰にも。
    それなのに、奪られてしまうのか。
 自分以上に、小十郎を必要とする者など、いるはずがないのに。
「梵天だけって言ったくせに!泣かなくていいって言ったくせに!うそつき、うそつき!!」
    行かないで、違うって言って。お願いだから、小十郎。
「裏切り者!!!どこへでも、好きなところに行ってしまえ!!!」

 体全体で叫んでから、はっと我に返った。

『どこへなりと、好きなようにするといい。』
 それは、小十郎が養家を追われる際の常套句だった。
 大人というのは不思議なもので、どの家の養父も、実の子が生まれ用無しになった小十郎にそう言うのだ。最後には、片倉の実父にまでそう言われて、おかしくなって笑ってしまった覚えがある。
 誰にも必要とされない自分。どこにも居場所がない自分。
 それは小十郎にとって、紛れもない事実であり、突きつけられた現実であった。与えられる幸せは、いつも喪失と隣り合わせであることを、知っていたはずなのに。
「……その言葉、あなたにだけは、言われたくなかった。」
 聡い、しかしまだ幼い、居場所を奪われた子ども。
 いつの間にか、この子どもの居場所になりたいと願っていた。そうして同時に、自分の居場所も与えられたように思っていた。
 不器用ながら、触れ合い、思い合い、冬を越した。共に過ごす未来に光を見た。少なくとも、小十郎はそのつもりだった。
 この腐った世界の中で、ただひとり。梵天丸にだけは、言われたくなかった。

 緩慢な動作で立ち上がり、常の機敏さのないのろのろとした足取りで歩く小十郎が、梵天丸の横を通り過ぎて、遠ざかっていく。
 傷つけた。一瞬だけ固まった後、すっと輝きをなくした小十郎の目を見たら、痛いほどわかった。
 珍しくザリザリと立てられる足音が小さくなる。目の前に打ち捨てられた手ぬぐい、あれは梵天丸と喜多が小十郎に贈ったもの。今の今まで、大切に使われていたそれ。
 失ってしまう。このままでは。きっと、もう二度と。
 噂などより余程実に迫る絶望の予感に、梵天丸は叫んでいた。


 いやだ、行くな、と言ったつもりだったが、あるいは悲鳴のように、言葉にはなっていなかったかもしれない。
 それでも、小十郎は足を止めた。わずかに振り向いた懐に飛び込んできた梵天丸の勢いのまま、土の上にごろりと転がる。
「いやだ、ちがう、うそなんだ。うそつきは梵天のほうだ。どこにもいかないで、だれにもとられたくない。こじゅうろう、こじゅうろう!」
 喉が潰れそうに泣きじゃくる声に、虚ろだった小十郎の瞳から、ぽろりと一粒、涙が落ちた。
 この小さな体が、こんなにも重く大きい。行くなという一言が、名を呼ぶその声が、こんなにも。
「……どうして、小十郎があなたを捨てるなどと思うのです。小十郎には、他に居場所などないのに。あなただけが小十郎を必要としてくれる。あなただけが小十郎に居場所をくれる」
 縋られているのは小十郎の方なのに、その声は脆く、まるで小十郎こそがその小さな身に縋っているかのようだった。
「わかってるんだ……小十郎。小十郎は、誰とも違う。わかってるのに、でも、梵天は信じられない。だって梵天は、梵天の右目は」
 こんなにも信じているのに、尚埋めきれない虚ろを生むもの。
 この右目は、呪われているから。

「ならば、その呪い、右目ごと取り去ってさしあげる」
 ゆっくりと身を起こす小十郎の腕に抱かれて、梵天丸は目を瞠る。
「みぎ、めを……?」
 掠れた声に、小十郎の色の薄い瞳がまっすぐ向けられた。
「そう、なくしてしまえばいい。その右目のせいでそんなにも自分を呪ってしまうなら、いっそない方がいい。それに」
「それに……?」
 そっと、小十郎の唇が、布の上から、しかし確かに右目に触れる。
「俺は確かな居場所がほしい。そこを、俺にください。」
 そんなことを望まれるなど、考えたこともなかった。
 当たり前だ、嫡男の目をくりぬいて、代わりにそこに入りたいだなんて、まともな臣下が言うはずもない。
 不敬で不遜で、傍若無人な願い。小十郎らしい願いだ。


 日は吉日を選んだ。小十郎が自らまじないを刻み月の光で清めた守り刀もある。隣室では事情のわからないまま侍医が控えている。
「小十郎」
 呼ぶ声にそっと近付く傅役に、梵天丸は震える手を伸ばす。その手を包み込んで、小十郎はしっかりと頷いた。
「お供いたします。どこまでも、何があろうとも。」
 小十郎に居場所をあげる。それと同時に、小十郎を縛りつける。もう誰にも奪われないように、どこにも行けないように。
 それは右目を膿んだ自分にしかできないこと。
    なんという僥倖だろう。
 震えの止まった手で、守り刀を鞘から抜いた。雛が殻を突き破る強さで。



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