竜の雛 6.5
雪解けも始まろうかという頃、輝宗は小十郎を呼び出した。
たまに会う度に健やかになっていく我が子の様子を、もっと詳しく聞かせてほしい。勉学はどうだ、好き嫌いはなくなったか、よく眠っているか。身を乗り出して訊ねる輝宗に小十郎は一つ一つ丁寧に答える。
特に輝宗が聞きたがったのは、やはり剣術についてのことだった。
「……そうか、やはり右目を庇うか。」
「痛むのか、視界を遮るのかはわかりかねますが、そのせいで疲労が大きくてあらせられます。しかし、筋は大変よろしいかと。」
がりがりだった手足は伸びやかに筋と肉をつけているが、どうにも右目が鍛錬の邪魔をする。布を気にして手を止めてしまうこともあれば、平衡感覚がぶれるせいで型が崩れ右側へ倒れ込んでしまうことも。
梵天丸は熱心に鍛錬に励んでいる。だからこそ、そうしたことがある度にぐっと唇を噛んで悔しさをこらえる様が、なんとももどかしかった。
いっそ取って捨ててやろうか、なんて。
こんなに幼い子どもがこんなに努力をしているのに、邪魔をするならば。それがたとえその身の一部でも、そうして楽にしてやりたいなどと、ときどき思うのだ。
俺は、どうかしてる。
「それで、今梵天は何をしておるのだ?禅師の説法でも喰らっているかな」
何気ない問いに、珍しく歯切れの悪い答えが返る。
「は、いえ……その、道場に。」
「道場?梵天が?」
驚き半分、面白そうに瞳を丸くした輝宗の視線に耐え切れず、小十郎はつい目を伏せてしまった。
それはこの日の朝のこと。いつも通り共に朝餉をとって、輝宗に呼ばれている旨を伝えると、梵天丸は突然道場へ行きたいと言い出した。
『書物はもう、読んでしまった。小十郎がいないなら、小十郎の部下たちと一緒に道場に行く』
ひとりで待ってるの、つまらない。ぽそりと付け加えられた言葉に妙にさざめいた胸の内を隠して、小十郎はいつも通りに落ち着いた表情でうなずいた。
理由は何にしろ、人の集う場所に出たがらなかった梵天丸が自ら道場へ行きたいと望んでくれたのは、とても大きな進歩だ。たくさんの人間が研鑽する熱い空気に触れれば、きっともっと元気になって、成長してくれるに違いない。
傅役らしい思考を組み立てて、それでは参りましょうと促す、そこまでは順調であったのだけれど。
手を。そっと繋がれる、もちりと柔らかい感触に。
『………………』
『………………』
小十郎は固まった。梵天丸も、動かない。
少し前なら、おそらく反射的に振り払うか、冷静に手を外させて主家と臣下の礼についてくどくどと言って聞かせるくらいはしただろう。
しかし。
『……………………では、畏れながら先導を』
小十郎は結局、固まった表情のまま、それでもぎこちなくその小さな手を引いて歩き出した。きゅうと握ってくる指の力が、小十郎の足取りをのろのろと遅らせる。それがなぜか丁度良く幼子の歩幅に合って。
隣をとことこ歩く尻尾頭がときどき腕に触れ、ますます小十郎の心を混乱に陥れたのだった。
絶対に輝宗には言いたくはないのだけれど、最近こういうことがよく起こる。
手を繋ぐ以外にも、どこかに行こうとすると衣を掴まれたり、小十郎の畑仕事が終わるまでじっと待っていたり。以前は困った顔をしていた髪結いの時間も、今ではさりげなく体重を預けて、なんとも安らかに座っている。
きっかけは、おそらくあの日。梵天丸が泣きながら小十郎の胸に飛び込んできた、あのときから。
まさか、俺に甘えて……おられる、のか?
はっきり言って信じがたいが、どう考えてもそうなのだろう。
わからねぇ……何で俺なんだ?
自慢じゃないが、小十郎は子どもの相手が上手くない。今まで何とか傅役ができていたのは、ひとえに梵天丸が聡く賢い子どもで、一人前と見なして厳しくされることを受け入れているからだ。
現に、あの日胸の中で泣きじゃくる梵天丸に、小十郎は驚きと戸惑いで固まっているだけで、抱きしめ返してやることすらできなかった朴念仁(後で喜多にそうこっぴどく叱られた)なのである。
しかしそれ以来、梵天丸が小十郎に触れ合いを求めるようになった。
梵天丸は泣き喚いて駄々をこねたりしない代わりに、自分の望みを小十郎が受け入れてくれるかどうか、あの大きな瞳でじぃっと見つめてくる。
こちらから拒絶しない限り、梵天丸はいつまでもそうしている。そして小十郎は、今まで一度もそれらの行為を拒絶したことはなかった。
優しさや慈しみで受け入れている、のではない。いつもその視線に思考が停止してしまって、持て余す心の揺れを必死に押し隠そうとすると、なぜか必ず望みどおりに動いてしまっているのである。
そうして気付いたら、喜多や部下たちにまで薄笑いで見守られるほど、梵天丸と小十郎の間には、妙にムズムズする空気が漂うようになっていた。
「ふむ?ほぉ〜う、そうかそうか。いやなかなか、うんうん。」
意味不明の相槌を打ちながらニヤニヤと笑みを向けてくる輝宗に、小十郎はむぎゅと口を引き結んで眉根を寄せた。何も言っていないのに、どうして喜多たちと同じ顔でこちらを見るのだ!
「そういうことなら、今度俺も道場へ顔を出そう。そのときは梵天と一緒に参れ、稽古の様子を見たいからな」
あくまで稽古のだ、他意はないぞ。ふっふふふ。
聞いてもいない念押しをする主はなんとも楽しそうにほくそ笑んでいる。その慧眼は小十郎が隠したもやもやを敏感に読み取ってしまったらしい。
ものすごく嫌そうな顔で、あからさまに渋々とうなずいた小十郎に満足したのか、輝宗は気を取り直すようにパンと扇子を打ち鳴らした。
「せっかくの機会だ。雪が解けたら、近侍を増やす。」
その言葉にはっと顔を上げて、小十郎は居住まいを正す。既に当主の顔の輝宗の目は、きりと先を見据えて澄んでいる。
「あれの周りは静か過ぎる。少し賑やかにしてやらねば、世界を見る目が縮みかねん。」
どうだと問われれば、小十郎も是とうなずいた。
「まずは大森から、伊達一門の若子を呼ぶ。年の頃は確か梵天より一つ下か……共に競い合い後には支え合う、同胞となってくれればとな。」
お前には更に世話をかけるだろうが、と悪戯に笑う輝宗に、小十郎はゆるく首を振る。聡いあまり年相応の振る舞いに恥を感じる様子の梵天丸には、同年代の子どもとの触れ合いはいい刺激になるだろう。
梵天丸のためになるならば、面倒は厭わない。
傅役、なのだから。それは当たり前のことだ。
言い訳めいたつぶやきが頭の片隅を過ぎるのに、また落ち着かない心持ちになって。
「それと、鬼庭の倅も近侍にどうかと思っているのだが。お前たち、仲がよくないだろう。嫌か?」
一瞬逸れた気持ちは、輝宗のからかいによってすぅと静まった。冷めた微笑を浮かべて小首を傾げ、
「仲がよくないなど、そんなことは。そも、好きだ嫌いだと童のような駄々はこねませぬし。綱元殿はこの小十郎などとても及ばぬ優秀なお方、きっと梵天丸様もお喜びになるでしょう。」
恭しく頭を下げる小十郎の負けん気の強さに、輝宗は片眉を上げて意地悪く笑う。
まったく、素直なのだかそうでないのか。
「お前は本当に可愛い奴よな、小十郎。」
しみじみとそう言ったら、鼻にまで皺を寄せて盛大に嫌がられた。そういうところが楽しいのだと、年若な小十郎にはまだわからないのだろう。
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