水の中で呼吸する感覚を真に知るのは、水に棲むものだけ。
羽ばたくための術を真に知るのは、空を行く鳥たちだけ。


竜の雛 5


「梵天丸様、お茶をお持ちしました。一息つかれませ」
「喜多!」
 午後の勉学の時間、小休止にと茶と菓子を提げて顔を出した喜多に、梵天丸がぱっと顔を上げた。
「如何されました?難しい漢字でもございましたか?」
「いや、あのな……その。今日は昼からずっと、あいつが、いないのだが。」
 半ばうつむいてもごもごと言われ、喜多がきょとんと首を傾げる。
「あいつ?小十郎のことにございますか?」
「うん……で、でも違うぞ!梵天は別にあいつがいなくとも、ただその、今まであれは席を外すときは何か言って、その、……だからそう、職務を放棄して何をしておると!そう思ったから!」
    あらあら、これは……。
 もちろんあの小十郎が何も言わず職務放棄などするはずもなく、現在は傅役の務めの一環だと、新しい作業に精を出している。喜多は小十郎から、梵天丸をそこへ連れて行く役目を頼まれていた。
 自分が言っても興味を持たれないだろうから。小十郎はそう言っていたものの、案外に梵天丸は小十郎を気にしていたらしかった。
 しかしそれを認めたくもないようで、先回りするように慌ててまくし立てる様子がなんとも愛らしい。喜多は必死で笑いをこらえると、怒った顔で調子を合わせた。
「梵天丸様にお伺いもせず席を離れるなど……愚弟が失礼を致しました。どうぞきつく叱ってやってくださいませ。」
「え……喜多はあいつがどこに行ったか知っているのか?」
「はい、存じております。宜しければこれより、喜多がお連れ致しましょう。」
 その申し出に、梵天丸は戸惑った表情で視線を彷徨わせる。
    あいつ、やはり外に行ったのか……。
 この離れにいるのなら、何刻も梵天丸に顔を見せないはずがない。わかってはいたが、いざ探しに行くとなるとやはりたじろぐ。喜多と共にとはいえ、自分を忌み嫌う者が数知れずいる離れの外へ、とても出たいとは思えなかった。
「で、でも、梵天は……」
 外が怖いだなんて、たとえ喜多相手でも言いたくはない。何か体のいい言い訳をして断ろうと口を開いた瞬間、
「梵天丸様ーっ!お出かけされるんスよね、俺らがしっかりお守りしやすぜ!」
「ってもすぐそこっスけど。小十郎様にもしっかり言われてるんで!」
「あ、馬鹿!それは内緒だって!!」
 突然雪崩れ込んできた賑やかな小十郎の部下たち三人に囲まれて、梵天丸は思わずその場で固まった。彼らの無礼を弟そっくりの剣幕で叱り飛ばすと、喜多は優しく小さな主の背を撫でて微笑みかける。
「大丈夫にございます。この離れの裏奥に物置小屋がありましょう?小十郎は殿に許可をいただいて、あの辺りに畑を造っているのです。」
「マジすげぇですぜ、梵天丸様!見に行きましょうや!」
 楽しげな笑顔の中で、梵天丸はきょとんと目を瞠った。
「…………あいつが、畑?」

 喜多に手を引かれ、三人の兵には周りを囲むようにして(距離からすればあまりに過保護とも言えるほど厳重に)守られながら、離れから城の敷地の奥へと進むと。
 土嚢やら肥料の袋やらがわんさと積まれたその先に、粗末な衣の男に何かを訊ねてはうなずき、意外と様になった動きで土を起こす、こちらもまた野良着に身を包んだ、若い男の姿が見えた。
 その背中、振るう腕、髪の色。
「……あぁ、梵天丸様。いらしてくださいましたか。」
 振り返ったその顔、瞳の色、声。それは紛れもなく、間違いなく。
    いつも取り澄ました、隙のない、あの小十郎が!
 髪は団子のように、簪(飾り気はないがどう見ても女物)で止めて。手にも足にもおまけに頬にまで土をつけて。ひょろりと長い足は、膝小僧まで見えているではないか!

「……………………くっ、あは、あははは!!!」
 思い切り小十郎を指差して笑い出した梵天丸に、皆がその動きを止めた。
 朗らかな、心底の笑顔。小十郎や兵たちはもちろん見たことがなかったし、喜多ですらもう何年ぶりかも分からない。
 声を失い目を奪われる中で、それでもいち早く反応したのは、やはり傅役。
「……笑いたい気持ちはわからんでもないですが、指を差すのはおやめなさい。相手が目下であろうとも、品性を疑われてしまいます。」
「はぁ、だって、そんな……ぷふっ!」
 しかしその姿では、小言の威力も半減。梵天丸の笑いは止まらず、
「……ふ、いやだ、確かにおかしいですわねぇ。ふふふ」
「小十郎様、泥つけて凄んでも駄目でさぁ!あははは!」
 とうとう皆で笑い出した一行に、小十郎は渋面を浮かべてため息をついた。
 この簪と野良着を用意した張本人である姉を、じとりと睨みながら。


 畑を作りたい。そう申し出た小十郎に、輝宗は場所を、虎哉禅師は指導者を宛がった。
「吾作殿、灰の量はこれで?」
「はいはい、それをしっかり混ぜ込んでやってくだせぇ」
 鍬を持つのは初めてではなかった。といっても、悪餓鬼だった時代に躾と罰だと延々土起こしをさせられたという、とても褒められた理由ではなかったが。それでもその経験が今多少なりとも役立っているのだから、人生とはわからないものである。
「片倉さまぁ、今日はこんぐらいにしましょうか」
 吾作の声にふと顔を上げると、顎先や首筋をだらだらと汗が伝っていった。いつの間にか今日分予定していた作業は終えていたらしい。
 喜多が差し出した手拭いを頭を下げて受け取ると、小十郎は吾作に困惑顔を向けた。
「吾作殿は今日から私の師匠です。敬称など……」
「いやぁ、儂は農民です。畑いじりは生業だのに、お武家さんに師匠だなんて呼ばせちゃなりませんよ。」
 正しく言えば、自分はいわゆる『お武家さん』ではない。けれどにこにこと穏やかな吾作の表情に、それ以上何も言う気になれなかった。
 部下も主筋の嫡男までもが見ている前で農民に謙るのは、概ね武士の姿勢とは程遠い。吾作の気遣いを察した小十郎は、居心地の悪い思いながらもこくりとうなずいた。
「……なんだ、もう終わったのか」
「梵天丸様」
 声をかけてきた梵天丸は、喜多の背に隠れるようにしてこちらを窺っている。
「えぇ、とりあえず今日のところは。もう蚯蚓が飛び出てきたりはいたしませんので、隠れていなくとも大丈夫ですよ。」
 汗を拭き簪を外した小十郎にからかうような声音で言われて、梵天丸はかっと顔を赤くした。先程掘り起こされた土の中にいた蚯蚓を初めて目にしてから、ずっと距離をとって眺めていたのに気付かれていたらしい。
「ぼ、梵天は別に、蚯蚓など怖くないぞ!!作業の邪魔にならぬよう下がっていてやったのだ!!」
「そうでしたか、お心遣いありがたく。ではこちらの吾作殿をご紹介いたしますので、どうぞ前へお進みくださいませ」
 ああ言えばこう言う。いつも通りに言い負かされた梵天丸は、渋々と喜多の背中から歩み出る。しかしその手はぎゅうと喜多の袂を握ったまま。できるだけ右目の布を見られないよう、視線を逸らしてうつむいている。
「この冬の間、小十郎に農作についてご教授くださいます、吾作殿にございます。虎哉禅師の古いお知り合いだそうで、ご紹介いただきました。」
 自分の師として招かれた虎哉の名に、梵天丸が思わず顔を上げた。横向きに膝をつく小十郎の後ろで畏まる吾作は、梵天丸の顔を直視しても特に揺らがず、穏やかなままの瞳で座っている。
 その様子が、先日顔合わせをした際の虎哉の様子とどこか似ていて、肩の力がふっと抜けた。喜多の着物から手を離し、まっすぐに吾作に向き直る。
「伊達輝宗が嫡男、梵天丸である。お役目大儀、我が傅役が世話になる。」
 胸の内は、随分早い鼓動を鳴らして、ひどく緊張していたけれど。
 声は震えなかった、思い描く『立派な嫡男の挨拶』ができた。小十郎が満足げに目を細めたのがわかって、梵天丸のひそかな喜びを更にかきたてた。

 梵天丸は本を読むのが好きだったから、作物を世話する農民がいることや、作物を育てることがなかなかに難しいらしいことは知っていた。
 けれど、実際に目の前で農民と話したことなどなかったし、畑にどのように野菜が成るのか見たこともなく、土の中には蚯蚓や虫が生活していることも知らなかった。
 天候、水はけ、土の良し悪し。農村での暮らし、冬の越し方。
 小十郎に乞われるまま続く吾作の話は平易な言葉であった分わかりやすく、日々汗を流し命を育て上げる者特有の、生に満ちた匂いのようなものが感じられた。
 それは世の中を知らない小さな子どもであるが故の錯覚では、きっとない。
「梵天丸様。吾作殿の手をご覧ください」
 吾作が快く差し出してくれた手のひらは、刀を握り慣れた小十郎や父の手とは全く違ったから。
 小十郎が説教の度に口に出す、民草を思うこととは、きっと。
「この手のひらが、野菜を育てて。その野菜が、梵天を生かしてくれる。そして梵天は、この手のひらを守るために生きるのだな。」
 そっと両手で握った手は温かく、これは大切なものだと、素直に心がそう言った。


 なぜ野菜を食べなければいけないのか。体にいいから、で納得してくれるのならば、野菜嫌いなど疾うの昔になくなっている。
 水の中で呼吸する感覚を真に知るのは、水に棲むものだけ。羽ばたくための術を真に知るのは、空を行く鳥たちだけ。
 では、野菜の大切さを真に知るものは?
 答えがそれであっていたのか、小十郎にはわからない。けれどこれを機に、梵天丸の食は一気に量を増した。
 雪が解けて春になったら、苗を植える。収穫を迎える夏には、梵天丸も今より嬉しそうに野菜を眺め食べてくれるだろう。
    早く夏が来るといい。
 巡る季節を心待ちにするなど、初めてのことだった。


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