竜の雛 4.5
小十郎が梵天丸の傅役となって、一月と少し。
早朝の鍛錬、午前の手習い、午後の学問とたっぷりの睡眠。毎日陽光を浴び新鮮な空気を吸う。小十郎が右目に薬を塗ってくれる。
そんな新年と共に訪れたたくさんの驚きに、少しずつ慣れてきた頃のこと。
「……梵天丸様。」
箸を置いた小十郎の目がすっと細められたのに、梵天丸はびくりと肩を震わせた。
小十郎の視線は、梵天丸の朝餉の膳の上。
「食物というものは、必要な量を体が求めるもの、無理に全てを食べることはありません。ただ、どの品も必ず口にすること。それが健やかなお身体を作る第一歩であると、小十郎は何度も申し上げておりましょう。」
梵天丸は食が細い。鍛錬を始めてからはその量も増えたとはいえ、膳を空にすることは殆どなく、今も膳の上は半分ほどしか減っていない。しかし、小十郎は一度もそれを責めたりはしなかった。
小十郎自身は、喜多の「吐いてでも食えば元気になる」という力強い信念のもと、高熱にぐらつく中で粥を流し込まされたこともある。
確かに、それも一理ある。と今なら思えるけれど、幼心には正直ひどく辛かった。同じように無理を強いて、ただでさえ弱りがちの梵天丸が食事に苦痛を感じてしまっては、本末転倒もいいところだ。
だから、食べられるだけの量で構わない。その代わり栄養を満遍なく摂るために、どの皿も等分に食べるように。初めて梵天丸と食事をしたときから、小十郎は再三言って聞かせてきた。
なのに。
「わ、わかっておる。梵天はちゃんと食べてる」
「ほう、しかし何やら膳の彩が偏って残っているように見えますが?」
「そんなの……っ」
この一月で、梵天丸は小十郎の怒ること怒らないこと、その境界線をおぼろげながら理解していた。
口答えはむしろ面白がっているようで、駄々をこねると冷笑で流される。自身を卑下する言葉には、一つ一つ言葉を尽くして掬い上げるように諭してくれる。
だらしなく身を律しないこと、他人に迷惑をかけること、そして利己的な嘘をつくこと。小十郎が声を荒げて怒るのは、そんな理由があるときで。
それがわかっているからこそ、梵天丸は言いかけた「お前の勘違いだ」という言葉を飲み込んだ。
「野菜がお嫌いですか?」
お見通しの小十郎には、ごまかしも沈黙も通用しない。
「……野菜が全部嫌いというわけじゃない。でも、かぶは変な繊維が残るし、ごぼうはパサパサするしにらは臭いし、おいしいと思えない。あと、それに、煮付けの味が濃くて……」
もごもごと言う梵天丸に、小十郎はきょとりと瞬いた。
好き嫌いはともかくとして。
厨の女中頭と喜多に梵天丸の味付けの好みを伝えると、二人とも目を瞠って驚いた。どうやら梵天丸は、今まで一度もそのことについて口にしたことがなかったようである。
味付けなど、もっと早くに一言告げればすぐに変わったことだろうに。長らく黙っているものだから、案の定女中頭は蒼白になって、昼餉からそのようにすると飛んで行ってしまった。
「んなことくらいで、我侭だなんて騒ぎゃしねぇんだがな……」
小十郎もまた、この一月で梵天丸の内面をおぼろげながら解し始めていた。
初対面があの調子であったからか、小十郎に対しては何かと歯向かう意思を見せる梵天丸だが、それ以外の者に対しては口答えどころかほとんど目も合わせない。何か言われると下を向いてうなずくだけで、赤面して黙り込んでしまう。
そして何より、どうやら「我侭を言ってはいけない」と堅く自分に言い聞かせている節があった。
初めは怒鳴りつけた己に怯えているのだろうと思っていたが、自分などより遥かに好ましく思っているであろう喜多やときどき顔を出す小十郎の部下たちに対してもそうなのである。
小十郎自身で言うと、一度だけいわゆる頼みをされたことがある。しかしそれは、
『右目の布あての巻き方を教えてくれ。明日からは、自分でできるようにするから』
つまりは他人に面倒をかけないための最低限まで絞り込まれたお願い、だったわけである。
小十郎はそれを面倒とは思っていなかった。梵天丸が自分でするには手の長さや力加減という面でも難しいだろう。だからそれは小十郎にお任せくださいと申し出たのだが、梵天丸は困ったように真っ赤になって俯いてしまった。
結局今も毎朝、小十郎が布を巻いてやっているのだが。梵天丸の困った、落ち着かないといった様子は変わらない。
我侭を厭うこととおそらくは同質に、あの妙に大人びた口調がある。完成され身についたものではない証拠に度々崩れて垣間見える子どもの素顔を、それらで必死に覆い隠しているのだ。
……ま、それも道理か。
梵天丸は聡い。自身に課せられた立場も、周囲の思惑も、きちんと理解している。あの小さな体で痛みをこらえるためには、そうせざるをえなかったのだろう。
可哀相なことだけれど、小十郎にすれば、我侭放題で温室しか知らない馬鹿息子よりはよっぽど傅のし甲斐がある。例え子どもであっても、理不尽な馬鹿は大嫌いだ。
生意気で内弁慶で引っ込み思案で自虐的思考で、可愛くはないが、可愛げはある。仕事を為すのが嫌になる相手ではない。それが梵天丸に対しての小十郎の正直な所見であった。
「さて、どうするか。」
望みが全て我侭になるわけではないし、伝えるべきものもある。それはどちらも肌で感じて初めて理解できるものが多く、とりあえず今すぐにできることは女中頭が快く応じてくれたと教えるくらいか。
火急に対策が必要なのは、偏食。
子どもが野菜を好まないのはよくわかる。今すぐに好きになれとまでは言わないが、それでも強制ではなく、梵天丸が自身の意思で偏食の改善に努めるように仕向けなければ。
そのとき。まるで天の采配、輝宗付の小姓に呼び止められたのである。
「小十郎。よく来た、近う」
招かれて訪れた輝宗自慢の茶室には、主の他にもう一人。墨染めの衣の老僧が座していた。
「禅師、これが片倉小十郎です。」
「殿ご自慢の若衆ですな。ただの爺めに畏まらんでよろしい、頭を上げなさい。」
正面から小十郎の顔を眺めて、老僧は皺の寄った目を細める。
「……これは、また随分と生意気そうじゃなぁ」
好々爺然とした笑みから出た感想に、小十郎は一瞬ぴくりと眉を引き攣らせ、輝宗は派手に吹き出した。
「いや、さすが!これの生意気さなら話の種は尽きぬほど。なんせ主の俺を鼻で笑う奴ですから」
「ほぅほぅ。しかしそりゃきっと殿にも因がおありじゃろうて、話半分で聞いておきましょうかの。」
手厳しいなぁとひとしきり笑って、輝宗は茶器を置いて小十郎に顔を向ける。
「こちらは、虎哉宗乙禅師。梵天の師としてお迎えするお方だ。傅役のお前を見ていただこうと思ってな」
その名を聞いて、小十郎は目を瞠った。虎哉宗乙禅師といえば、世に聞く臨済の名僧である。
「……なんと、有り難きこと。梵天丸様は学問に非常に熱心でいらっしゃいます。斯様に素晴らしい師をお迎えできること、とてもお喜びになるでしょう。小十郎めもご指導ご鞭撻いただきたく存じます。」
深々と頭を下げた小十郎の口上に、虎哉はやられた!というように一度自身の額を叩いて、困り顔でうんうんとうなずいた。
「実を言うと今の今まで、お断りさせていただくつもりだったんですがの……こうまで歓迎されてしまっては、とても後には退けますまいなぁ」
「禅師ならば、きっとそう仰ってくださると思っておりました。」
思惑通りに事が運び、輝宗はにやにやと悪い笑みを浮かべている。それに大きなため息をついた虎哉であったが、ふと表情を改めて小十郎を見つめた。
「して、片倉殿といったかな」
「敬称など付けていただいては、あまりに勿体のうございます。どうぞ、小十郎とお呼びください。」
どうにも畏まった姿勢の抜けない小十郎に、虎哉は若干苦笑気味、輝宗はというと、自分に対しての態度とのあまりの違いに複雑な心境だ。
「では、小十郎。今そなたの頭の半分は別の何かについて思いを巡らせておる様子。おそらく御嫡男に関することじゃろうて、ここは一つ、殿と儂とに聞かせてはくれんかの?」
思考の動きをしっかりと見抜かれていたことにはっと顔を上げた小十郎は、深く澄んだ泉のような虎哉の瞳に促され、深くうなずいた。
先の朝餉の件について、話し終えた小十郎へ、虎哉はこう言った。
「水の中で呼吸するということがどういった感覚か、説明できるかな?」
「は……?」
唐突な問いかけに思わず礼を失して聞き返した小十郎に、虎哉は構わず続ける。
「では、空を羽ばたく際の身体の使い方については?」
わかるわけがない。見たままを口に出すことならばできても、小十郎は魚にも鳥にもなったことなどないのだ。
訝しげな表情の小十郎に、虎哉は目を細めて笑みを返す。
「つまりそういうことじゃの。なぞなぞとも言えぬが、これはそなたへの最初の宿題としようか。」
「おぉ、早速教育に励まれるとは、なかなか禅師も熱心でいらっしゃる。小十郎、励めよ!」
それは小十郎に指針を示す、意味のある問答であるらしい。何か感じるものがあったのだろう、楽しげな二人に小十郎は今一度深く礼をした。
退室していった小十郎の気配が遠のいて暫く、虎哉は顎をさすりながら呟いた。
「……なるほど、なかなかどうして難しそうじゃ。」
「ですが、うまくやっている。梵天も小十郎も、きっとこれから変わりましょう。」
数日持たぬと言っていたのが、既に一月続いているのだ。ゆっくりと、しかし確実に、二人は歩みを進めている。
自分の役目は、その歩みを止めないように、こうして周囲を整えていくこと。守り、助け、背を押すこと。
「お方様は、如何お過ごしか?」
穏やかな虎哉の声に、浮かぶのは重く物憂げな面。かつてならば、華やかなかんばせを彩る笑みを、いつでも思い起こせたというのに。
「あれも、色々と思い悩んでいる様子。宜しければ禅師に御説法いただきたいと、義子も申しておりました。」
「難しいご時勢ですからなぁ。儂でよければいつでも構いませぬよ。」
「禅師には、お願いばかりで申し訳ない。」
「なに、坊主は説教が仕事ですからな。殿に寺までいただいて、そのくせ務めも果たさぬようでは、如何な御心広き仏もお許しくださらん。」
輝宗の宿した自嘲の色濃い笑みを、虎哉は悪戯な物言いで拭い去った。
年若くそれ故に情の強くなりがちな伊達家中の者たちにとって、この全てを穏やかに受け流し許す、虎哉の存在は大きな拠り所となっていくのである。
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