竜の雛 4


「それでは本日から、鍛錬を始めると致しましょう。」
 板の間まで冷え切った曙、梵天丸と小十郎は離れの裏庭で向かい合っていた。
 昨日の午後、昼餉を取って少しうたたねをした後に、二人でこの裏庭の雪をかいた。小十郎が道場でと言うのを梵天丸が頑なに拒んだ結果である。
 喜多がとても喜んで励ましてくれた(小十郎の言葉も、まぁちょっとは…)ので、少しずつ前へ進んでみようと意気込みは持てたものの、離れから出るのはどうしても恐ろしかった。きっと突然出てきた自分に対して、皆嫌な顔をするに決まっている。
 それに、衆目集まる中、八つにもなって武芸のいろはから習う姿を晒すなど。
 梵天丸の矜持の高さを見抜いていた小十郎は、嫌がる理由を察したのだろう、怒る様子もなくそれを受け入れた。
 代わりに雪かきをすると言われたときにはげんなりしたものの、小さな庭は立地の加減か然程雪も深くなく、小十郎の真似をして雪だるまなるものを作って並べれば、もう竹刀を振るに十分だった。
 庭の隅からは大小二つの雪だるまが梵天丸を見守っている。昨夜ぐっすりと眠れたおかげですっきりとした体に気をよくして、しっかりとうなずいた。

 まずは姿勢と握りを崩さず、正しい型をもって剣が振れるよう、ゆっくりと素振りを繰り返す。
「腕が下がってきておりますよ。脇を締めて、顎を引く。」
 小十郎は向かい合わせに手本を示しながら、一回一回、細かく丁寧に指導を入れる。ここで妙な癖がつくと剣が崩れるのだと言われ、梵天丸も素直にそれに従った。
 しかし、半刻を過ぎた頃。
「は、はぁ、……はぁっ」
 呼吸は整わず、体中から汗がだくだくと流れ落ち、竹刀を握る手も鉛のように重い。手をついた膝が笑うのを懸命に堪える梵天丸に、小十郎が手拭いを差し出す。
「今日はここまで。よくがんばられました」
「それは、……何だ。皮肉か?」
 何とか息を整えて、男子のくせにひ弱だと言いたいのだろうと睨み上げると、小十郎はゆるりと笑んで首を振った。
「いいえ。始めは型と体力を身につけることが目標。怠けようとせず一振り一振りを真剣にこなされた結果の疲労なのですから、これで宜しい。」
 さぁと示されて、おずおずと受け取った手拭いは顔と首を拭っただけでぐっしょりと濡れてしまった。稽古着も右目の当て布も、汗で色が変わっている。
「朝餉の前に、湯浴みを致しましょうか。このままでは汗が冷えて風邪を召されます。腕や足も湯船でしっかり揉んでおくと楽になりましょう」
 小十郎はと言えば、汗をかくどころか顔色一つ変えていない。初陣も済ませ、小隊とはいえ小姓の身分ながら部下の命を預かる武人だ。この程度の素振りでは、体も温まらなかったかもしれない。
 常に糸が張ったように伸びている背筋。力みのない太刀捌き。伝わる風圧の重さと鋭さ。
 武士が剣を振るう様などほとんど見たことがない梵天丸にも、小十郎がかなりの腕前の持ち主であることは明らかだった。


 湯につかり、身支度を整えて、朝餉は昨日と同じく小十郎と一緒に膳を囲んだ。こんな仏頂面でも、いないよりはいた方がご飯が美味しい。それが不思議だ。
 膳を片付けて手習いの準備を終えたとき、梵天丸はもう一つ不思議を見つけた。筆をとる小十郎の手は、左。
「お前、左利きなのか?」
 考えてみれば確かに、竹刀を支える手は逆だった。横でなく鏡のように向かい合って見せたのはそのためだったのか。
「……?でもさっき、箸は右手で持っていただろう」
 首を捻る梵天丸に、小十郎は左右で文字を書いて見せる。
「小十郎は両手が使えます。ただやはり生来利き手の左の方が剣や手となると僅かに上回るので、そのように。」
 半紙にすらすらと並んだ文字は、じっと見比べてもほぼ遜色なく整っていた。
「…………。」
 見目も整い、武に優れ、達筆。隙のない立ち姿で、きびきびと無駄なく動く。その上、左右両利き。
 出来る男であるのは、傅役に選ばれるのだから、当然といえば当然。普通ならばこれほどの男が自分の傅となったのだと喜ぶべきかもしれないが。
    なんて、なんて嫌味な奴!!
 気に入らない。大いに、それはもう、そこはかとなく、気に入らない。
 だってこんな、不敬だし不遜だし傍若無人で、人の言うことは聞いている顔をして端から我を押し通すつもりしかない、こんなむかつく奴なのに!
「さぁ、まずは梵天丸様の手を小十郎に見せてくださいませ。」
 病を患う以前は喜多に手習いを受けていたのだから、平仮名や簡単な漢字は書けるはずだ。それ以上に、聞けば引き篭もっている間にはかなりの書物を読んでいたらしい。
 手習いをどの程度から始めるか図るためだろう、小十郎に促されて、梵天丸は憤る心のままに筆を走らせる。
 そうだ馬鹿と書いてやろうその紙をこいつにくれてやるのだ梵天からの初めての贈り物を喜んで受け取らないわけにはいくまいふふんだ見てろこの鉄面皮!

 べちゃ!!

 たっぷりと含まされた墨が、半紙の上であちらこちらに飛び散って歪な円を描くのを見て、
「…………てめぇ、字が汚ぇだ下手だの問題じゃねぇだろ。やる気あんのか!?」
 真っ青になった梵天丸の頭に、今日もまた小十郎の拳骨が落とされた。


 その日、梵天丸は決意する。
 このとんでもなく気に入らないむかつく鬼のような傅役を、いつか絶対追い抜いて、ぎゃふんと言わせてやるんだからな!!



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