竜の雛 3
ぐちゃぐちゃに荒れた部屋を掃除させられること、一刻と半。冬にも関わらず汗を滲ませて畳を拭いていた梵天丸は、手の痺れに息を荒げて座り込んだ。
投げ散らかした物の片付けならまだしも、墨なんて、どれだけ熱心に拭っても、吸われてしまえばもう落ちないのに。
ただでさえずっと閉じ篭りきりで、体力も落ちている。疲労で熱を持ちふるふると震える細い手を抱いて、梵天丸は入り口で見守る(と言っていたが完全に見張っている)小十郎を振り返った。
「……もう、いいだろう。墨の跡が落ちないからといって、梵天は我侭を言ったりしない。汚したのは自分だって、ちゃんとわかってる」
全身くたくたの梵天丸に小十郎はお疲れ様でしたと恭しく頭を下げ、
「殊勝な御心掛けは大変よろしゅうございますが、お部屋は変える必要がありましょう。畳はともかくその壁では、伊達の嫡男が寝起きする部屋には相応しくありません。」
家中に蔓延る竺丸派の誰かに見られでもすれば、部屋替えも許されぬとは殿の御心も嫡男から離れたりなどと悪評が立つ可能性もある。
小十郎の言い分は理解できても、どうしても納得できないことが一つ。梵天丸はひくりと口元を震わせると、思い切り畳を叩いた。
「では、なぜ梵天はここを掃除させられたのだ!?もう使わぬ部屋なら、意味がないではないか!!」
ぎりぎりと雑巾を引き絞る梵天丸に、小十郎が目を眇める。そこへ、若い兵士がドタドタと足音を立てて駆けてきた。
「小十郎様!ご指示の通り、あっちの部屋の畳の張替え、終わりやした!」
完全にチンピラ丸出しの兵の相貌と言葉遣いにぎょっとしたものの、
「馬鹿野郎、足音を慎んで控えやがれ!梵天丸様の御前だぞ!!」
「ひっ……す、すんません!!」
それ以上にその彼をして震えて庭先に伏せさせる小十郎の睨みの鋭さに、梵天丸は苛立ちを忘れて身を縮めた。
もう何か、この傅役、怖すぎる。地獄の閻魔様ですら、こいつに比べればきっともっと優しい。
「梵天は、気にしない。そんなところにいては風邪を引くだろう、廊下へ上がれ」
雪に埋もれても顔を上げない彼が可哀想になって声をかけると、驚いた瞳にまっすぐ見返されて、梵天丸の方がたじろいだ。
「……梵天丸様の温情だ。有難くお受けしろ」
「へ、へぃっ!梵天丸様、俺なんかに声かけてくださって、ありがとう存じます!」
使い慣れない敬語に四苦八苦しながらも嬉しそうな兵に、小十郎が苦笑して手拭いを渡す。梵天丸は屈託のない笑みを向けられたのが嬉しくも恥ずかしくて、袂の位置を直すふりをして下を向いた。
「それで、張替えが終わったと言っていたな。他の奴らはどうした?」
「あ、あいつらは室内を軽く掃除っス。自分は小十郎様に次の指示聞いてこいって言われたんで……」
「そうか、ご苦労だったな。戻ってあいつらを呼んでくれ。調度品を運ばせる」
「へぃ!一っ走りしてきやす!!」
再びドタドタ走る足音に小十郎の眉間が引き攣ったが、梵天丸の視線に気付いて上げかけた怒声を何とか飲み込む。
「驚かせてしまい申し訳ありません、小十郎の部下にございます。戦場では勇猛な兵なのですが、如何せん礼儀作法の方はさっぱりの者ばかりで。」
荒くれ者のように見えて怖いかもしれませんが、根はいい奴ばかりです。にこりと微笑んで言った小十郎に、梵天丸は胡乱な視線を向けた。
「……お前にそんなことを言われるなんて、部下が哀れでならないな」
その荒くれ者のような兵が震え上がるのだから、いかに所謂美男と言うべき甘やかな容姿であろうとも、小十郎の方が怖いに決まっている。
梵天丸の返しが気に入ったのか、小十郎は悪戯っぽく片眉を上げた。
新しい部屋を包むのは、藺草の青々とした香り。
元々主の居室となるべくして作られていたこの部屋は、庭が最もよく見えて、清々しい開放感に満ちている。奥の間も広く、小窓からは山々や空の美しい景色。
「春になれば、あちらの梅を皮切りに、花々の咲き誇る庭が御覧になれましょう。」
「うん」
「しかしこうして火鉢をつつきながら眺める雪の庭というのも、なかなかに風情があるものです。」
「うん」
「いかがですか、梵天丸様。こちらの部屋は気に入っていただけましたか?」
実は、少し落ち着かなかった。こんな大層な、いかにも御嫡男が居室と言わんがばかりの部屋は、母にすら疎まれるこの身には恥ずかしくて。
しかしそれよりもせっせと調度を運んでは整えてくれた喜多や兵たちの気持ちがずっと嬉しかったので、梵天丸はうつむいたまま小さくうなずいた。
「この部屋は、誰が使うものでなくとも、毎日丁寧に掃除が為されておりました。」
梵天丸が顔を上げると、小十郎は庭からその隻眼へとまっすぐに視線を移し、
「なぜそんな無駄なことをと申されましたが、喜多に聞けばこう言うでしょう。梵天丸様に快くお過ごしいただくためだ、と。」
たとえその梵天丸が自室から一切出ず、掃除をし花を飾り庭を整える、その全てが無意味なものかもしれなくとも、決して無駄なことではないと。
「そのような想いの込められた場所で暮らしているということを、梵天丸様には知っていただきたかった。」
それに。小十郎の声色がきりりと引き締まり、梵天丸の背筋を伸ばす。
「小十郎の部下は午前を鍛錬に充てております。彼らはその時間を割いて此度の居室替えに協力してくれました。あのお部屋の掃除を梵天丸様がなさらなければ、女中たちも常ならばしなくとも済むはずの労を割かねばならなかったでしょう。」
事は余計な労力だけの問題ではない。
新品の畳は丁度備蓄があったからすぐに用意できたが、割れた硯や花瓶、傷んだ筆など全て、小さいが確実に無駄な出費と言える。軽く見て積もり積もれば財政は圧迫され、皺寄せは重い徴税となり農民の元へ行くのだ。
一挙手一投足、その全てが国の行く末を左右する。
「些か大袈裟ではありますが、梵天丸様にはそれくらいの気概であってほしい。凡愚なら言うだけ無駄でしょうが、あなたはとても利発でいらっしゃる。下々まで見通す目を持った良き当主となっていただきたい。」
とうしゅ。つぶやいた梵天丸は、ぎゅっと眉根を寄せて下を向いた。
「……梵天が、当主なんて。片目じゃ戦に出られるかもわからないのに」
「出られるように、鍛錬を積みましょう。ご指導致します。」
「きっと皆、梵天を怖がってついてきてはくれない」
「人心を掴むものは、両目があるかないかではなく、主と仰ぐべき人物かどうかです。目の痕が怖いなどと腑抜けたことをぬかす奴はどうせ戦場でも役に立ちゃしませんから、むしろわかりやすくて宜しいかと。」
後ろ向きな言葉を塗り替えられる度、どんどん真っ赤になっていく梵天丸に、小十郎は一度うなずいて。
「今はまだ幼くとも、今に皆が驚く才気溢れた武士となられましょう。小十郎も助力致します。喜多も、小十郎の部下たちも。あなたを支える者がいることを、どうかお忘れくださいますな」
唇を噛み締めて声もなく涙を零す梵天丸を、黙ったまましばらく見守っていた小十郎は、ふとやわらかに微笑んだ。
「時に、梵天丸様。お腹は空いていらっしゃいませんか?」
時刻はとっくに昼餉の時を過ぎてしまっている。きょとんと顔を上げた梵天丸の腹が、時宜よく音を立てた。
久しく忘れていた感覚に驚いた梵天丸は、まさか笑うわけにもいかず反応に困っている小十郎としばし目を見合わせて。
「……掃除を、がんばったからだな。腹が空いたのは、すごく久しぶりだ」
ぎこちなくも素直に、口元を綻ばせた。
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