竜の雛 2


 明けて、傅役生活初日の朝。
「梵天丸様、お早う御座います。起きていらっしゃいますか?」
 今日も一部の隙もなく身支度を整えた小十郎が、朝餉の膳を傍らに梵天丸の部屋の前で畏まっていた。数拍置いて、障子に手をかける。
「失礼致します」
 言うが早いかズバン!と開けると、隅で様子を窺っていたらしい梵天丸が飛び上がって驚いた。
「な、なっな……ぶ、無礼者!梵天の応えもなく、いきなり戸を開けるとは何事だ!!」
「おや、これは相すみません。まさか小十郎めに応えをくださるおつもりだとは、夢にも思いませんでしたので」
 端から踏み込む気でいた小十郎は、空々しく頭を下げたまま言ってのける。前日に引き続き大概失礼な態度の小十郎であったが、顔を上げた瞬間にぴしりと音を立てて固まった。
 部屋の中は、前夜癇癪を起こした梵天丸の所業で散々な荒れ様。奥の間に続く襖は脇息でも投げつけられたのか凹んでいるし、床の上には縁が欠けた花瓶やら筆やら何やらが転がって足の踏み場もない。壁や畳には墨をぶちまけた跡が残っている。
 その時点で既にこめかみに青筋を浮かべていた小十郎は、未だ部屋の隅で尻餅をついている梵天丸に目をやった瞬間、

「てめぇ、こんな時間までそんな格好のまま、何やってやがる!!」

 現役時代には街のごろつき共を揃って震え上がらせた片倉小十郎の怒声に、梵天丸はひっと息を呑む。身を竦めて縮こまる梵天丸を、鬼のような形相の小十郎が朝の光の下に引きずり出した。
「やっ、やめろよ!」
「うるせぇ!!見ろ、もう日もあんなとこまで昇ってる。朝餉の支度まで済んでる時間に、髪は梳いてねぇ寝巻きも着替えちゃいねぇ、そんなだらしねぇ格好してるなんざ、恥ずかしいとは思わねぇのか!!」
 伸び放題の髪は結われもせず、身に纏うのは寝汗でよれた夜着のまま、青白い肌と痩せぎすの手足。随分久々に日の下に晒された自身を顧みて、梵天丸はかっと顔を赤らめた。
「だ……だって、そんなの!梵天は誰とも会わないんだ、別にだらしなくたって、誰も気にしないし困らない!」
 ぎゅうと目を瞑って言った梵天丸に、小十郎は眉間に皺を寄せたまま。
「何を仰います、これから小十郎は毎日梵天丸様とお会いするのですぞ。そんな格好のまま過ごされたんじゃ、小十郎が恥ずかしい。気になりますし、困ります。」
 さぁ着替えるぞと襟首を掴む小十郎に、梵天丸はぎゃあぎゃあと声を上げ手足をばたつかせて暴れる。しかしそんな抵抗はどこ吹く風、小十郎は足元に転がる邪魔物(梵天丸の私物であり、勿論高価なものであるが)を蹴飛ばしながら、奥の間へ進んでいった。
 尋常でない怒声と突然騒がしくなった嫡男の部屋に慌てて飛んできた喜多と警備の兵は、放られたままの朝餉と襖の先に消え行く小さな足に、顔を見合わせた。
「誰か盥を持って来い!!梵天丸様に顔を洗わせる!!」
 襖の向こうから届いた声は、兵すら飛び上がるほどドスが効いたもので。相当怖いのだろう、嗚咽交じりになりながらも、気丈に反抗する梵天丸の声に、喜多はがっくりと肩を落とす。
 あれほど言ったのに、何が『三日は様子を見よう』だ。しかし久々に聞く梵天丸の大きな声を思えば、よくやった弟よ!と思わずにはいられない。複雑である。

 うるさく騒ぎ立てる梵天丸に、最初の拳骨を落としてからしばらく。梵天丸が人生初の衝撃に呆然としているのをいいことに、小十郎はさっさと着替えを済まさせた。
 きちんとした格好をすれば、やはり次は顔を洗い髪を整えようと思うもの。小十郎が頭を覆う布に手をかけると、梵天丸は我に返り身を翻して拒絶した。
「梵天丸様?」
「ぃ……いやだ、嫌だ!」
 ふるふると震えて両手で頭を庇いうずくまる梵天丸に、小十郎は伸ばそうとした手を止める。
「しかし、それを取らなければ顔も洗えませんし。そんなにぐるぐる巻きつけたんじゃ、邪魔で髪も結えないでしょう」
 それでも梵天丸は何度も首を振って嫌がるから、どうしたものかとため息をつく。着物とは違い、その布にこだわる意味がわかるからこそ、そこだけは無理に剥がす訳にはいかなかった。
「お前は、知らないから……知らないからそんなことが言える。梵天の右目がどれだけ醜いか、呪われた忌み子の証は、見えないように覆っておかねばならぬのだ!」
 八つの子どもの口から出る言葉とは、到底思えない。梵天丸を取り巻く闇の深さに、小十郎は眉根を寄せた。
 忌み子などと。口さがない輩の声が、こんな離れに閉じこもっても尚聞こえていたのか。それともこの離れに移る前、五つや六つの梵天丸が聞いたのだろうか。
「そのような馬鹿らしい噂に怯えるような、くだらない連中と一緒にしないでいただきたい。」
 声に自然と怒りがこもる。目の前の子どもが自分で自分を醜いと言ったのが、悔しくて。
「俺は、俺のために。何ら恥じることのない自分になって、目にものを見よと、そう言ってやると決めている。」
 どうせ生きるなら、せめて自分だけは、自分の誇りを汚さぬように。
「自身に誇りを持って生きられませ。右目が見えぬが何ほどのことかと言えるような、強き武士となられませ。忌み子が何だと言うのです?己が忌み子であるかどうかは、家督を継ぎ当主となり、天下を取って知らしめてやればいいだけのこと」
 一体こいつは何を言い出すのかと、目を瞠る梵天丸に。
「この小十郎、病毒ごときに悲鳴を上げるほど柔じゃない。俺にはあなたがただの小生意気なクソガキにしか見えませんので、要らぬ怯えはお捨てなさい。」
 小十郎はまっすぐにそう言いきった。

 恐る恐る、布を解いて。右目を人に晒すことは、手が震えるほど恐ろしいことだったけれど。顔を上げた梵天丸に、小十郎はあっさりと、
「あぁ、少し膿んでますね。消毒はきちんとされていますか?当て布も清潔なものに交換いたしましょう。用意させますから顔を洗っていてください。」
 すぐそこの廊下にいたらしい喜多に何事か言いつけている小十郎の声を聞きながら、梵天丸は盥の水面に映る自分を眺めた。
    相変わらず、醜い。
 小十郎があんまりあっさりしているから、もしかしたら瘡痕がなくなったのかと思った。自分でも正視に堪えない有様に、きつく目を閉じて顔を洗う。
「梵天丸様、右側もきちんと洗わねばなりませんよ。」
 指先に触れる痘痕や膿が気持ち悪くて、嫌だ。しかしそれを言うのは、あまりにも矜持を傷つける。結局顔を伏せたまま黙っていると、隣に跪いた小十郎が手を伸ばして洗ってくれた。丁寧に消毒をして、薬を塗り込み、新しい当て布を宛がって。
 ためらいなど全く感じさせない手つきだった。

「布を巻く前に、髪を結いましょう。このままじゃみっともないですから、毛先も少し揃えましょうか。」
 栄養不足でパサパサの髪を梳きながら、鏡面越しにそっと窺うような視線を感じて、小十郎は微笑んでみせた。
「あんな過剰に布で巻かなくともいいように、髪形も変えた方がようございますな」
「えっ!?いや……」
「ご安心召されよ。刃物の扱いには慣れております故」
「刃物とか、そういう問題じゃない!そ、それにどうせ布を巻くんだろう、髪型なんてどうでもよいではないか!」
 慌てふためいて逃げ出そうとする梵天丸の頭をがっしり掴んで、小十郎は片眉を上げる。
「どうでもよくはありませぬ。梵天丸様は身嗜みの大切さというものをご存知ない、それもこれから小十郎が教えてさしあげまする。」
「だ、だから!布を……」
「それも今までのような不恰好な巻き方はやめましょう。もっと少ない布で、見目も悪くなく、簡単には解けない巻き方に。お任せください」
「梵天は、今まで通りで構わぬと言っている!」
 その言葉に、小十郎がフンと鼻を鳴らして笑った。ものすごくむかつく顔で。
「蒸れて禿げてもいいならば、どうぞご自由に。」

 削いだ髪や小刀の後始末をしに小十郎が部屋を出て行くと、梵天丸は悔しさに身悶えて畳を叩いた。
 何なんだあいつは。何なんだあいつは!あまりにも無茶苦茶な小十郎に、それしか言葉が見つからない。
 けれど。そっと鏡面を覗き込めば、随分と様変わりした自分の姿。
 右目には、たった一本の、厚さも幅も以前の半分ほどの布がくるくると巻かれている。言葉通り、上を向いても下を向いてもずれることがない。擦れて痛かった頬も自由になって、口を動かすのも楽になった。
 前髪は布の代わりに右側へ多めに流れるように整えられて、左目の視界が拓けた。鬱陶しかった後ろ髪も、高い位置で一つに纏められてすっきりとしている。
「まぁ、まぁ梵天丸様!よくお似合いにございます!」
 振り返ると涙ぐんで喜ぶ喜多。その向こうには雪の庭と青空が広がり、冷たいけれど新鮮な風が室内に満ちていく。
 喜多に優しく背中を撫でられながら、もうずっとずっと遠のいていたものを身近に感じて、鼻の奥がつんと痛んだ。
 無茶苦茶な小十郎は、たった数刻で梵天丸の色々なものを破壊した。今までされたことのない態度、言われたことのない言葉、教えられなかったこと。
 臣下にしてはありえない不敬さはかなりむかつくけれど。小十郎は自分を怖がらない、疎まない、それが少しだけ嬉しかった。

 まぁその嬉しさも、戻ってきた小十郎に問答無用で部屋の掃除をさせられ、墨はもう落ちないと訴えると「誰のせいだ、甘えんじゃねぇ!!」と二度目の拳骨を落とされ、さっぱり消えてなくなったけれど。
 本当に、何なんだあいつは!!



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三日どころか、半日も我慢できなかった小十郎。
自分でさらっと書いといて、現役って何だよと思った(笑)