「カズさん……好き」
「ん……」
奥まった校舎の片隅、夕闇に紛れるように、物影で交わされる口付け。
柔らかな感触に目を閉じながら、初めてキスした日を思い出した。
さくらんぼ。
「ねぇねぇおかあしゃん、ちゅーってなぁに?」
「ぐっ、ごほっ!!」
よく晴れた水曜日の朝。珍しく早起きした息子のおかげで普段よりも準備が早く終わり、ソファでゆったりと紅茶を飲んでいた母は、突然の質問に酷く動揺した。
ハンカチで口元を押さえて気持ちを落ち着けると、いつもの「昭栄くんの綺麗なお母さん」スマイルで息子に向き直る。
「昭栄、ちゅーなんて、どこで覚えたと?」
「んっとね、あのね、きのうのよる、おとうしゃんが、おとうしゃんもじょゆーのましゃみちゃんとちゅーしたか〜ってゆってたの!」
にこにこで言う昭栄にはそうなの〜と何とか笑顔を返したが、心の中では子どもの前で何てくだらないことをと出勤済みの夫を睨んだ。
「ねぇ〜おかあしゃん、ちゅーってなぁに?おしえてよ〜!!」
膝にじゃれついてくる可愛い息子に、何と説明したものかと迷う。
「んー、そうね……昭栄のお口と、昭栄の一番大好きな人のお口を、ちゅってくっつけることよ。」
「えーっ、おくちをくっちゅけゆの!?」
舌の回らない様子が可愛くて、びっくりしている息子に笑いかける。
「そうよー。ばってん、ちゅーはね、とっても特別に、いっちばん大好きな人としかしちゃダメなの。」
「じゃあ、おとうしゃん、じょゆーのましゃみちゃんとちゅーしちゃダメっちゃ!おかあしゃんがいるもん!」
ぷぅっと頬を膨らませた昭栄を眺めて、そういえば最近キスなんてしていなかったなぁと目を細めた。たまにはお帰りのキスなんて、してあげてもいいかも。
「しょーえー、ほいくえんいくぞ〜!!」
「あっ、かじゅしゃんったい!」
お隣の元気なカズくんの声がして、昭栄は弾かれたように駆け出していく。微笑ましい光景に、穏やかな気分で立ち上がった。
「今日は皆で、お庭の花壇にパンジーの苗を植えましょう!」
保育士の先生の声に、子どもたちが元気に返事をする。それぞれ苗を手に花壇へ散っていく中、昭栄とカズはプランターの前にしゃがみこんでいた。
「しょーえい、どれにするかきめたと?」
「うんっと、うんっと……かじゅしゃんは?」
「おれはこれっ!いちばんげんきできれーなやつやぞ!」
「じゃあ、ぼくもおんなじいろっ」
嬉しそうな笑顔で苗を受け取ると、両手で大事に持って、歩き出すカズの後に続く。先に花壇へ向かっていたヨシが二人に手を振った。
「はい、シャベルな。」
「よっしゃん、ありがとうっ!」
早速三人並んでパンジーを植える。カズのパンジーにぴったりくっついて植えようとする昭栄をヨシが諭したりしながら、何とかちゃんとできた頃には、三人とも手が泥だらけだった。
「やっぱり、おれのがいちばんきれーったい!」
カズが満足そうにふんぞり返る。昭栄は自分のも結構きれいだと思ったけれど、カズとお揃いのお花を植えられたから、一番じゃなくてもいいと思った。
「かじゅしゃんは、いちばんがにあうっちゃ!」
そう言うと、カズがにかっと笑って手をつないでくれる。いつもはかっこいいけど、こんなときは可愛いと思う。そんなところも大好きだから、昭栄も嬉しくてにっこり笑った。
園庭の隅の手洗い場は二つしか空いていなかった。
「おれ、いっちばん!」
ぱっと端っこの蛇口に向かったカズの後ろで、ヨシと昭栄が顔を見合わせる。
「よっしゃん、にばんどうぞっ」
ヨシはいつも順番を譲ってくれるから、今日は自分が譲ろうと昭栄は意気込んで手を挙げた。先に言われてしまったヨシは困った顔をする。
「しゃべるの、おれいです!」
「……そうか、ありがとう。タカはいい子っちゃね。」
手が汚れていて頭をなでてやることができなかったから、ヨシは優しく笑って蛇口に向かった。昭栄はカズの後ろにきちんと並ぶ。
ふと視線を感じてヨシが隣を見ると、カズが慌てて手元に向き直った。何も言わず手を洗いだしたが、その間もカズはハンカチで手を拭きながら、ちらちらとこちらを伺う。
「……ヨシ、あの」
「うん?」
「……ハンカチもっとー?」
「もっとるよ。」
「ふーん…………。」
カズのあからさまにがっかりした声音に、笑いをこらえる。手を拭きながら顔を上げると、カズは少し唇を尖らせてうつむいていた。
……ったく、ワガママやなぁ。
「カズ、おれくつしたかえたかやけん、タカんこつたのんでよか?」
ヨシのお願いに、カズがぱっと顔を上げてうなずく。よしよしと頭をなでて歩き出すと、
「しょーえいっ、てぇあらうぞ!」
張り切って世話を焼く声が聞こえてきた。わかりやすい幼馴染に、こらえきれない笑いが漏れる。
昭栄だけがいい子だと褒められるのが気に入らなくて、けれど昭栄のように素直には振る舞えないカズ。甘ったれで天邪鬼だが、そんな不器用さが可愛い。
「あら、ヨシくん、楽しかこつがあったかな?」
くすくすと笑いながら教室に入ってきたヨシに、保育士が微笑んだ。
手洗い場には、すでに昭栄とカズ二人だけ。手を洗ったら給食の時間だから、皆お腹が空いてさっさと行ってしまったのだろう。
「かじゅしゃん、もうきれい?」
昭栄も今日の給食が何か気になって、そわそわとカズを呼ぶ。どれどれと昭栄の手をチェックしていたカズは、むぅっと眉を寄せた。
「ダメやっ!こことか、つめとか、まだドロがついとるやなかか!」
もー、と文句を言いながら、カズが石鹸を泡立てて昭栄の手を洗ってくれる。あわあわとカズの手のぷくぷくした感触がくすぐったい。
「ちゃんときれいにせんと、バイキンがおなかにはいって、タイヘンっちゃよ?」
「だって、はやくきゅうしょくたべたか〜」
「おれやっておなかすいとると!きれいにするまでガマンせろ!」
叱られてしょぼんとしていると、すすいだ手をじーっと点検していたカズが、にっと笑って顔を上げた。
「よしっ、きれいったい!」
その笑顔に昭栄もぱっと顔をほころばせて、やったー!と両手を上げる。
「じゃあ、ハンカチできれいにふいて。」
カズがそう言うと、ポケットを探っていた昭栄が肩を落とした。困った顔をのぞきこんで、カズが首をかしげる。
「しょーえい?もしかして、ハンカチなかと?」
しゅんとうつむいた昭栄の頭をよしよしとなでて、カズが自分のハンカチを取り出した。
「しょうがなかな、かぜきんがつくっちゃけん、ふいてやる!あしたはわすれちゃいかんとよ?」
「……かじゅしゃん、ありがとうっ!」
うん、とうなずいて、優しく手を拭いてくれる。大きな目は真剣に昭栄の手を見つめて、まるで小さな風邪菌も見えているみたいだ。
保育園の子の中には、カズを怖いと言う子もいる。でも、昭栄はそんなことないとちゃんと知っている。カズはすぐ大きい声を出したり叩いたりするけど、その後いつも「ごめんなさい」って思っているから。
こんな風に優しく手を拭いてくれるし、今カズの頬に張られている絆創膏は、昭栄を野良猫から助けてくれたときのものだ。引っかかれて血が出ているのを見て、昭栄は驚いて泣いてしまったのに、カズは「オトコのクンショウだ」と笑っていた。
「かじゅしゃんは、やさしくて、かっこよかね!」
にこっと笑って言うと、カズはちょっと耳を赤くして、
「ま、まぁな!おれはおっきくなったら、いちばんつよかヒーローになるけん。」
「ひーろー?ぱとかーにのると?」
「パトカーものるし、しょーえいのすきなヒコウキものるけん!」
得意げに笑うカズに抱きついて、昭栄は目を輝かせておねだりをする。
「じゃあ、かじゅしゃん!おっきくなっても、ずーっと、まもってくれると?」
甘えてくる昭栄に、カズはうーんと首を捻って考えた。男の子は一人で戦えるようにならないとかっこわるいと思うけど、昭栄はちびで甘えん坊だ。
「……しょうがなかなー、おれがずーっとまもっちゃる!」
「やったー!!」
ぴょんぴょん跳びながら喜んでいた昭栄は、そうだ!と顔を輝かせてカズの袖をくいくいと引く。ポケットにハンカチをしまったカズが顔を上げると、昭栄がにっこり笑った。
「かじゅしゃん、だ〜いしゅきv」
ぷちゅ。
「……カズさん?何ですか、いきなり笑って〜」
明らかにキスに集中していない様子のカズが突然小さく噴き出したので、カズを壁に押し付けるように覆い被さっていた昭栄は膨れっ面で声を上げた。
「はは、悪か。ちょぉ、初めてキスしたときんこつ思い出して。」
懐かしい話題に昭栄も柔らかく微笑んで、カズの艶やかな髪をなでる。
「保育園のときでしょう?カズさん、せっかく初めてのちゅーだったのに、『なん、よだれつけんな汚かな〜』とか言っとったよね。」
しかも、その後は何事もなかったかのように給食をがっついていた。
ムードのない過去の自分に、昭栄の胸に頬を埋めたカズがくつくつと笑う。無理もない。当時の自分は、キスがどういうものかなんてちっとも知らなかったのだから。
「あん頃から、もうお前はマセガキやったってこつやな?」
「えー、そん言い方は嫌やなぁ。神聖なる愛の誓いでしょ〜?」
昭栄の腕の中に抱きしめられて、月日の流れをしみじみと感じてしまった。
初めてキスをしたあの日、まだ自分よりも小さくて頼りなかった昭栄。今は身長も随分と追い抜かれたし、肩幅も胸板も筋肉のつき方も自分より逞しく、声も低く甘く響くようになった。
「昔はカズさんに守られてばっかりやったとばってん、今は……俺もカズさんこつ、守ってあげられます。少しは成長しとーでしょ?」
つむじに優しいキス。降ってくるその優しい感触に目を閉じた。
小さな手を引いて歩いた、保育園時代。いつも自分の後を追うちびが可愛くて、俺がいつまでも守ってやるって、本気で思っていた。
『カズさん聞いて、おれ逆上がりできるようになった!』
『せからしか、俺は跳び箱6段とべるとよ!』
『えぇっ、すごか!!』
しょうもないことで張り合った小学生時代。少しずつ生意気になる昭栄にイライラしたりもした。
『カズさ〜ん、見てた?俺のミラクルシュート!!』
『そのミラクルが起きるまでに何本外しとると……ノーコン。』
『ひ、ひどかぁ〜!!』
バスケ部を選んだ昭栄に少し寂しさを覚えていた、中学時代。一年経ってサッカー部に入ってきたのが、妙に嬉しかった。
そして、今。
可愛い弟分は、いつの間にか愛しい恋人に変わって。
かつては知らなかった、心まで飲み込んでしまいそうなほど深いキスも、体のもっと奥深くで繋がり合うことも、知っている。
ゆっくりと顔を上げると、幸せそうな微笑みに迎えられた。
こん表情だけは、変わらんな……。
頬をなでると、嬉しそうに擦り寄ってくる。抱き寄せて唇を合わせたところで、二人の間でカズの携帯電話が震えだした。振動はすぐに止んだけれど、その場の空気を一変させるには十分で、あっさりとカズは昭栄の体を押しやる。
発信者は、現在二階下の生徒会室で会長職に追われているはずの、幼馴染。
「も〜よっさん、よかタイミングで……」
「生意気言うな」
ぐすっと鼻を鳴らす昭栄の額を小突いて、メールを開く。
「あー、そろそろ見回りやと。帰るか。」
簡潔な文の最後に添えられた『いちゃつくんも大概にせぇよ』という部分は見なかったフリで、先に歩き出す。行動を読まれているのは恥ずかしいけれど、マメな性格の彼にはいつも助けられている。
あいつのそいうとこも、変わらんな。
トントンと階段を下りていくカズを慌てて追ってきた昭栄は、そうだ!と機嫌よく笑って隣に並んだ。
「カズさん、俺こん前測ったら、身長また伸びとりましたよ〜!」
身長の一言に、カズの目が据わる。挙句「カズさんは?」などと話を振ってくるので、階段を降りきったところで、無言のまま蹴りつけた。
「小さか頃は、まだ可愛げがあったんになぁ……」
「えぇっ、なしですかぁ〜!今だってぇ」
「そげん図体の奴がだってぇ〜とか言っても可愛くなか」
つんと先を行ってしまうカズを追いながら、昭栄は微笑んだ。
昔はこげん風に、カズさんこつ見下ろすげな、思いもせんかったなぁ。
たくさんのものが変わったけど、今も昔も、変わらないものもある。カズの意地っ張りな性格とか、兄貴ぶりたいところとか。それを可愛いと思う、自分の気持ちとか。
とっても特別に、いっちばん大好きな人としか、キスせんとこも、ね。
不機嫌そうな顔をしながら、歩調を緩めてくれるカズに並んで、つぶやく。
「ちゃんと、伸びとーよね。知っとーよ。」
色々と思い出していたせいなのか、妙に深い色を宿したその声に、カズはちらっと昭栄を見上げた。
「……当たり前っちゃろ!」
面白くなさそうにふんと鼻を鳴らして、昇降口で待っている坊主頭の幼馴染の元へ駆け出していく。その一瞬、視界を掠めたカズの耳の赤さに、昭栄は破顔した。
「カズさ〜んっ、待ってくださいよ〜!!」
ねぇ、今日は久々に、昔みたいに三人で手をつなごうか。
そうして振り返れば、さくらんぼみたいにつながった、長い長い影が見えるはず。
いつまでも、どこまでも。
お付き合いありがとうございました。
保育園児、完全に趣味に走りました。楽しかったです。
かじゅしゃんしか見えない昭栄とそんなワンコが愛しいカズさん。
いつまでも二人手をつないで、幸せになってください。
そしてよっさん、どこまでも保護者お願いします(不憫だ…笑)
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