「うわー、やっぱまだ降っとーですねぇ」
部室を出てすぐに、昭栄は空を見上げて立ち止まった。
零雨。
「あーっもう、邪魔や!」
「いでっ!!」
出入り口をふさぐ形で突っ立っている昭栄に、ゲシッと強烈な蹴り。痛む尻をさすりながら振り向くと、いつもよりいささか不機嫌な表情のカズが睨んでいた。
今日は午後からずっと雨が降っていて、当然グラウンドもぐちゃぐちゃ。そこで走り回る自分たちもぐちゃぐちゃ。中でもGKのグローブは、輪をかけてどろっどろ。
「カズさんひどかですよ〜!グローブならさっき綺麗になったとでしょ?」
こだわりの強いカズは、用具の状態にも気を配る。普段より早めに切り上げた練習後、それぞれがシャワーを浴びて帰って行く中で、カズは一人黙々とグローブやシューズを磨いていた。
「せからしか、腹減っとーに邪魔するお前が悪か!」
確かに、背の高い自分がデカいバッグをぶら下げてドアの前に立っていれば邪魔にもなるだろう。けれどこの時間まで昭栄が残っていたのは、ひとえにカズを待っていたからである。完全な八つ当たりだ。
しかし、このくらいはいつものこと。こうやって当たられるのも、心を許されている証だと思えば何ということもない。
「ねーカズさん、相合傘したか〜!」
昭栄を押しのけて部室を出て、預かった鍵で施錠をする。その背中に懲りずにベタベタとまとわりつく昭栄に、返ってきたのは無言の肘鉄が一発だった。
当然のように二人で向かう帰り道は、カズの家へと続く。普段は自転車を使うけれど、雨の日は電車と歩きで20分程度。実は自転車の方が時間がかかるのだけど、漕ぐ昭栄がそれを望むのだから、何も言わない。
はぁ、とため息を一つ。何だかひどく心がカサついて、何となく、傘が邪魔だと思った。
もともと雨は好きな方ではなかった。泥がついた用具を磨くのは時間がかかるし、濡れるとその分傷みやすくなる。まとわりつく湿気や肌を打つ雨粒、かさばる荷物はうざったい。
「でねー、今日の体育、バスケやったとですけど……」
楽しそうに話す昭栄の横顔をこっそり見上げた。未だ10センチ近くある目線の距離。今度は話に合わせて動く手を見る。傘と傘が作り出す距離は、10センチ以上。
ふぅ、もう一度ため息。傘が邪魔だ。自転車に二人乗りなら、昭栄のくせっ毛も低めの声も高めの体温も、日々たくましくなるその腕も背中も、全部そばに感じられるのに。
サッカーは青空の下が一番気持ちいい。昭栄と帰るのも、夕焼けや星空を見ながらの方がずっといい。
何か、変ったい。
まるで子供みたいだ。人肌恋しくて、触れていなきゃ寂しい、なんて。
原因は、実はわかっている。数日前受けた電話で拓けた道。夢を叶える、この上もない道だ。嬉しかった。身が震えるほどに。
反面、思い知らされた。こうして二人でいることに何の障害も存在しない、こんな日々はもう続かないこと。
甘えてはおらんつもりやったとばってん……
ここにある幸せに浸っていた。与えられる甘さに酔っていた。自分だって所詮人間だ。分別がどうのとか、昭栄には偉そうなことを言っているけれど。
離れたくない。そのくせ、プロとして旅立つことには微塵の迷いも感じない。ぐちゃぐちゃだ。
「そういえば今日、七夕祭りやったとですよね。こげん雨じゃ中止っちゃなぁ〜」
突然耳に届いた昭栄の言葉に、カズははっと顔を上げた。久々に合った視線に昭栄の目がふっと和んで、電柱に貼ってあるポスターを指差した。
「俺ひそかにカズさんこつ誘おうって狙っとったのに」
自治会運営の、地元の小さな祭りだ。幼い頃は楽しみにしていたけれど、年を重ねるごとにその存在も意識しなくなっていた。雨の中、二人でポスターを覗き込む。
「こげんもん、いつから貼ってあったと?全然気付かんかった。」
「え、ほんとに?一月前くらいからあったとですよ。」
外にいる人間の方が、中の変化に敏感である。当たり前の環境のありがたみは、手にしているうちは感じないものなのだ。どこかで聞いた言葉が浮かんで、カズは苦笑して歩き出した。
「こんばんはー、お邪魔しまっす!」
昭栄の元気な挨拶に、居間から母親がパタパタと駆けて来た。手にはしっかりタオルが二組。
「お帰り!あら、二人ともあんまり濡れてなか?」
「あー、帰る前に雨足ちょぉ収まったけん。」
受け取ったタオルで軽く肩口やバッグを拭いて、カズは汚れ物を入れた袋を持って風呂場へ向かう。
「あ、カズ!今日はそれ、そのまま洗濯機のとこに置いといてよかよ。」
カズが不思議そうな顔で振り返った。汚れ物はいつもまず自分で軽く洗ってから洗濯機に入れておく。長年の習慣を助かると喜ばれたことはあるが、そのままでいいと言われたのは初めてだった。
「ご飯できとーけん、お部屋に持って上がって。」
袋の代わりに二人分の食器の乗ったお盆を渡されて、追いやられるように二階の部屋へ向かったカズは、きょとんとしたまま首を捻る。
「おかーさん、カズさんこつ心配しとったとですね。あげん気ぃ遣って、優しかや。」
「え?」
カズの手からお盆をとって机に置いた昭栄は、困ったように笑った。
「最近カズさん、何か悩みっちゅーか、落ち込んどーでしょ?無理に聞かんですけど。」
聞かなくとも何となく、察するものはある。夏の大会を前にして、有力な選手は注目される時期だ。カズはこの年代で一、二を争う実力のGKである。将来に向けて、悩みは尽きないのだろう。
何も言わずに目を伏せるカズをぎゅっと抱きしめて、何度も頭をなでた。信頼して任せてくれたカズの母には悪いが、情けないことに、これ以外の方法を自分は知らない。
「…………腹減った。」
しばらくされるがままに目を閉じていたカズが、ぼそっとつぶやいた。ちょうどよくぐーっと鳴る音に二人で笑って、座り直して箸をとる。
夕食は少し冷めてしまっていたけれど、愛情のこもった温かい味がした。
カズが勉強机に座って宿題を始めてしまったので、邪魔するわけにもいかない昭栄はぼんやりと窓の外を眺めていた。サラサラと、降り続く雨の音に耳を澄ませる。
本当は自分も宿題をするべきなのだが、とてもそんな気分ではなかった。
「……?ショーエイ?」
もぞもぞと近寄ってきた昭栄に、カズが顔を上げる。カズと机の間にできたスペースに割り込むように、昭栄がカズの膝に頭を乗せた。
「カズさん、勉強まだ?」
構って!と語る昭栄の目に、カズは眉根を寄せる。デコピンをした手は握りこまれて、そのまま昭栄の頭へ導かれた。
ここを撫でて、とねだられるままにしてやると、気持ち良さそうに目を細める。甘ったれだ。いつものことではあるが、今日は特に。
「雷は、鳴ってなかやぞ?」
からかうカズの言葉にむぅと唇を尖らせて、昭栄はカズの腰を抱き寄せた。
「ねーカズさん、今日は七夕ですよね。」
突然の質問に、カズはそれがどうした、と片眉を上げる。
「一年に一度しか逢えんのに、雨降ってしまったとですよ。バリかわいそうったい!」
一瞬何の話かわからなかったが、どうにか記憶の片隅にあった昔話を思い出した。怠惰の罰に引き裂かれた二人が、一年に一度だけ天の川を渡って再会する、だったか。
何をまた子供のようなことを、とも思うが、昭栄はこういう伝承や迷信が割と好きである。きっと真剣に短冊に願いを書くタイプだ。
「関係なかやろ、星は雲の上にあるとやぞ?下が雨降ろーが、上は晴れとる。」
「あ!なるほどぉ〜!!」
冷めた表情のカズとは裏腹に、昭栄は感心しきりでうなずいている。
「じゃあ今日の雨は、織姫と彦星が嬉しくて泣いとーけんかなぁ……」
「ん?」
ぽつんとつぶやかれた声は届くか届かないかの大きさで、意識を教科書に向けていたカズは再び昭栄を見下ろした。
「だけん何か、優しかっちゃね。」
下腹に埋められた昭栄の表情は見えないけれど、泣きそうだと思った。昭栄は時々、カズにはわからない感傷で心をいっぱいにすることがある。
「ショーエイ?」
見上げてくる目には、涙の代わりに深い色。
「ねぇカズさん、もしも俺がカズさんと一年に一度しか会えんってなったらね?」
瞳を揺らすカズの手を優しく握った。指先まで溢れそうに込み上げる、この愛しさを伝えるために。
「俺なら、ちかっぱがんばります。海だろうが川だろうが、泳いで渡ってでも、カズさんに会いに行く。何回だって、会いたくなったら会いに行きます。」
驚いたし、嬉しかったけれど、それは無理な話だ。織姫と彦星の距離は、見た目よりもきっとずっと遠い。
本州とここ、九州も。
つい苦笑を漏らしたカズに、昭栄は真剣な顔で言い募った。ぎゅっと握る手に込められた力とその瞳が、カズを惹きつける。
「そんなら!残り全部の日使って、準備しときます。その日一日、カズさんと最高に幸せに過ごせるように」
待って待って、ようやく大好きな人に出会えたら、涙だって出るだろう。ぎゅっと抱きしめて、一瞬だって離れたくない。離したくない。そう思うはずだ。
「だけん……」
何と言えば伝わるのか、わからなくて言葉に詰まった。お互いが持つ不安な気持ちを溶かすには、言葉じゃ足りない。
カズは一度目を閉じて、教科書をパタンと閉じた。スタンドのライトも消して、昭栄に向かい合うように床に座る。
もう、今日はやめた。一日くらい、何も考えないで甘える日があったっていい。
「キス」
ねだる言葉は短くても、気持ちはちゃんと伝わるものだ。抱き寄せられて、カズはゆっくりと目を閉じた。
とろとろとした意識の中で無意識に伸ばした腕の先に、求めたぬくもりがないことに気づいて、カズはゆっくりと首をもたげた。開ききらない目で辺りを見回す。
真っ暗な部屋と降り続く雨の音。しんとした空気が、きっと深夜なのだと思わせる。いつの間に自分はベッドに入ったのだろう。
―――あ、ショーエイ君。カズはもうお風呂入った?
―――あー、カズさんもう寝ちゃったけん……
―――そう……じゃあ今日はもうよかね。最近疲れとーみたいやけん。
―――うん。ばってんおかーさんも、あんま気ぃ遣いすぎて疲れんようにしてね?
―――……そうね、ありがとうね。ごめんねショーエイ君。
―――ううん、俺カズさんもおかーさんも大好きやけん!じゃあ、おやすみなさい!!
遠くで聞こえていた声が足音に変わる。その音と体に残る独特の倦怠感にようやく状況を把握して、カズはもぞもぞと布団に潜り込んだ。
言葉の代わりに心を通じさせるキスは、自然と深くなっていって、気付いたら妙にしっとりとした雰囲気になってしまっていた。
流されるって、あーいうこつかもしれん……。
雰囲気に酔った、としか言いようがない。唇を合わせたまま床に倒れこんで、そのまま。
あー……。
それでも、自分がそれを求めていたのは確かだ。満たされた気持ち。
あんなにグルグルと考えていた不安や迷いや希望や……ごちゃごちゃに絡まった、自分でもどうしようもなかった気持ちが、凪いだ海のように落ち着いている。
「カズさん、起きちゃった?俺うるさかったです?」
そーっとベッドの中に入ってきた昭栄が、カズの目がぱちっと開いているのを見て聞いた。申し訳なさそうなその顔に、何だかむずむずと恥ずかしくなって、昭栄の腕を乱暴に引いた。
「別にっ。お前一人で風呂入りやがって、俺やって疲れとーに!」
「うぇ?カズさん、もっ、もしかして一緒にお風呂入りたかやったとですかっ?」
促されるままにカズを胸に抱いて寝転んだ昭栄が、見当違いなことを口走る。んなわけねかろーがっ!と小声で叫んで、腕枕をべしっと叩いた。
誰が一緒に風呂なんか入るかばか者。しかもちょっと嬉しそうに言うな。
ちぇーっと唇を尖らせながら、昭栄は優しくカズの髪を梳く。ぷりぷりと怒っていたカズも、その心地よさに大人しく身を任せた。
結局、こいつしかおらんってこつなんかな。
アホだし、馬鹿だし、すぐ調子に乗るし、色々ムカつくけど。自分をこんなにも落ち着いた、優しい気持ちにするのは、きっと昭栄だけだ。
「カズさん……ねぇ、俺やっぱり、会いに行きますけん。大人しく待つだけっちゅーんは、俺には難しかと思うし」
星の川は泳げるかわからないけれど、本州になら辿り着く術がいくらでもある。
「カズさんだって、会いに来てくれるでしょ?カズさんは川の向こうから動けんお姫様とは違うと。強くてかっこよくて、それに俺よりずーっと大人になるっちゃもん。」
そう、変化は辛く寂しいことばかりではない。距離は広がっても、収入も権利も増えるなら、できることだって増えるはずだ。会いたいなら自分から会いに行けばいい。
きっとカズの気持ち一つで変わる。この自分が果たして素直に動けるかは疑問だが、それでも。
大人になっとや。幸せの形やって、一つだけじゃなか。
今までのように毎日べったりではなくても、その分逢えた瞬間の喜びはきっと大きい。待つ間だってきっと、辛いだけじゃないはずだ。
サッカーをして、胸を張れる自分がいて、昭栄に愛されて。最高に幸せな未来だ。
「……お前、遠距離なんぞ申し訳なかとか、遠慮して身ぃ引くっちゅー奥ゆかしさはなかと?」
「はっ!?いやいやいや、そげんこつ無理です!!こげん好いとーに……絶対、何が何でも、別れたりしませんけんね!!」
意地悪な思いつきで言ってみたことに、昭栄が慌てて言い募る。その必死さと腕にこめられた力の強さが、くすぐったくてたまらない。
遠距離ごときで、昭栄が自分を手放すはずがない。少しでもカズと一緒にいるために、わざわざ毎日遠回りで自転車を漕ぐような奴なのだから。
「どこだって会いに行きますけんね!金貯めて、ラーメンやって我慢すっとです!メールも電話も、カズさんが嫌じゃなければ毎日だってします。手紙は……書いたこつなかばってん、カズさんが欲しかなら書くし!ね、やけん俺んこつ捨てんでっ?」
「あーハイハイ。せからしかな、もう寝ると」
「えぇっ!?そんな、カズさんが変なこつ言うけん!俺ちかっぱ不安です〜!」
まともに取り合ってくれないまま目を閉じてしまうカズに、昭栄がわたわたと視線を泳がせる。ふと目に入った雨雲の隙間。
「あっそうや、カズさん短冊書きましょう!ずーっと一緒に、らぶらぶでいますって。ねっ、二人で書いたら絶対叶いますよ!」
早速起き上がろうとする昭栄に、カズが胡乱な視線を投げる。腕枕を奪われないように寝返りを打ちながら、あくび交じりの声を上げた。
「お前なぁ、アホなんもいい加減にせろちゃ。そげんこつ、俺らん気持ちで叶えるもんったい。神頼みで叶うわけなかやろ」
「ふぇっ…………へっ、あ?そ、それってカズさん、あのっ……!?」
今度は違う意味でわたわたし始める昭栄に、カズが呆れた目で振り返る。ゆるく握ったこぶしで昭栄のこめかみをぐりぐり。
「大体なぁ、考えてみらんや。好いとる奴にたまに会えた日に、他人の願い事なんぞ叶えとる余裕あると思うか?」
こんなに毎日会っている自分たちでさえ、手の中の幸せに夢中だと言うのに。
野暮な邪魔をするなと再び目を閉じたカズに、昭栄は首まで真っ赤に染めて抱きついた。
環境が変わるって、結構覚悟がいりますよね。今手にしているものが心地よければ余計に。
で、カズさんは割と事前にこっそり寂しくなるタイプかなーと。でも間違ってもプロ行きを悩んだりはしない(笑)
昭栄は、この時点では漠然と寂しいなぁ〜としか考えてないです。
だからどこにだっていつだって会いに行くなんて、本心から理想論言えちゃうんですね。
いざ離れる直前とか、離れた後になって、本気で泣いて追いかけるのが昭栄だと思っています。
その辺はまた…あぁ楽しい(笑)