それを認めたら、世界が変わってしまうような気がして。


きっかけは些細でも


 なぜか今日は、妙にイライラする。指先からチリチリと痺れるように、ずっとこの気分の悪さが付きまとっている。
「カズ、どげんした?調子悪か?」
 せっかくの選抜練習日に仏頂面で黙り込んでいるカズに、末森が心配そうに声をかけた。
「……や、別にそげんこつなか。悪か、気ぃ遣わせた」
 そう言って、独占して寝転がっていたベンチから半身を起こす。空いたスペースに、末森が座った。
「こげん短か休憩じゃ、うたた寝もできんでいかんか?」
 別にと言われても納得はできないが、そう言われてしまうとそれ以上踏み込めない。軽口でカズの気を紛らわせようとする末森に、カズは苦笑を返そうとして、
「えーっ、高山くんもうレギュラーになったと!?」
「すごかぁ〜!!」
 いらっ。
「九州選抜ってバリ強かなんでしょ〜?高山くんかっこよか〜!」
 いらいらっ。
「まー、俺は天才やけん!こんぐらいヨユーっちゃろ!」
 プチッ。

「……らしか」
「か、カズ?」
「……え、カズさん?」
 突然立ち上がって何事かつぶやいたカズに、末森が驚いて少し身を引いた。その声に、少し離れたフェンス越しに、見学に来ていた同級生の女の子たちと話していた昭栄も振り返る。
「せからしかって、言っとーとやろ!!」
「え、う、はい!?」
 持っていたタオルをベンチに投げつけて、カズが怒鳴る。突然怒鳴られた昭栄は、条件反射で姿勢を正した。
「さっきからギャーギャーギャーギャー、騒ぎよって練習に集中できんやろーが!!何が天才やこんボケ!!お前げなヘタクソ、やる気なかなら使う必要なかじゃ!!帰れ!!!
 思いっきり一方的に叱られて、昭栄は目を白黒させている。一方のカズは怒鳴るだけ怒鳴って、さっさと昭栄に背を向けた。
「ヨシ、休憩終わりやろっ!!練習せんか!!」
 幼馴染に八つ当たりしながら、ずんずんとコートに向かっていく。全員いきなり何事だと思いつつも、怒れる守護神には逆らわず、それぞれ歩き出した。
「え、ちょ、カズさぁん……?」
 帰れと言われてしまった昭栄は、何が何だかわからないままオロオロとその背中を視線で追う。
 確かにちょっと調子に乗ったのは認めるが、何も練習中にサボっていたわけではない。休憩時間、練習を見に来た友達と喋っていたのが、そんなにいけないことだったろうか。
    よぅわからんばってん、カズさん怒っとーし、謝らんと……
 完全にカズしか見えなくなった昭栄がその後を追おうと踏み出しかけると、女の子たちが眉をひそめてささやき出す。
「えー……、何アレ、怖かぁ。高山くんいっつもあげんこつ言われとーと?」
「ヘタクソとか、ひどかー!そげんこつ言う奴に限って自分がヘタクソだったりするとよ!」
「それにあの人、こん中で一番チビやん。偉そうなこつ言って……」
「ちょぉ待てや。」
 キツい視線で振り返った昭栄に、女の子たちは驚いて口を閉じた。トーンの低い声、はっきりと敵意を示す視線。初めて見る昭栄の姿に、戸惑ったように視線を交し合う。
「俺に気ぃ遣ってくれるんは嬉しか。ばってん、カズさんこつ悪く言うんはやめんや。あん人はバリすごか、俺げな足元にも及ばん人ったい。それ以上は俺が許さんけん」
 言い捨てて、一瞥もくれずに昭栄はカズの元へ走り出した。
    チビ?ヘタクソ!?カズさんのすごかとこ、何も知らんくせに!!
 友達は大事だが、彼女たちとはただ学校が同じで、好意的に話しかけてくれるから自分も同じように返す。それだけのことだ。学校という接点を外せば、友達と呼べるかも怪しい。
 彼女たちとカズでは、天秤にかける必要もないほど、昭栄にとってその存在の重さの違いは明らかだ。とは言っても、一番仲のいい友達でさえ、結局カズには敵わないが。
 自分や城光たちが、カズの身長を軽くからかったり、可愛いと表現したりするのはいい。だが、他人にあんなふうに言われるのは、腹が立ってしょうがない。
「カズさん、すんません!!練習させてくださいっ!!」
 わけがわからないままに怒鳴られて、それでもこうして頭を下げられるのは、カズが他の誰よりも尊敬すべき先輩で、他の誰でもない昭栄の「特別」だからだ。

 気付いたらいつの間にか女の子たちは消えていて、そんなことよりカズの機嫌がなかなか収まらないことに気を揉んでいた昭栄は、帰りの電車の中で、ようやく少し口をきいてくれたことにほっとした。
「じゃあカズさん、次の練習んときまでに絶対できるようにしときますけん、またそこ見てくださいね!」
「ん。」
 ようやく会話ができたと思った矢先、カズと城光の最寄り駅に着いてしまって、少しがっかりしつつも二人に頭を下げる。
「カズさんよっさん、お疲れっした!」
「おう、タカも気ぃ付けてな。」
 軽く手を挙げて去っていく二人の後姿を、昭栄はまるで取り残された子犬のようにしょぼんと見送った。
「はぁ……せっかくの練習日やったのに……。」
 振り返れば、今日一日カズと交わした会話は、叱られたときと謝ったときと、先程のスキルアップについてのアドバイス、のみ。涙が出そうだ。
 また電話しよう。そうじゃなきゃ、寂しくて生きていけないかも。ぐすっと鼻を鳴らして、昭栄も乗り換えのため歩き出した。


 家もすぐそこ、という所まで来て、突然城光が口を開いた。
「タカんこつ、好いとーと?」
「…………………………。はっ?」
 何の脈絡もなく、意味不明な問いかけをされて、カズは思わず眉をしかめた。
「何言っとーと?」
「だけん、タカんこつ好いとーんか?って聞いとーと。」
 聞いとーと、じゃねーだろ。思わず心の中で突っ込んで、カズはとりあえず苦くも笑いを返した。
「なん、どげんした?笑いとるには、ちょぉ脈絡なさすぎ……」
 合った視線に、カズは語尾を飲み込んだ。
「こげん悪趣味な冗談、わざわざ言わんやろ。」
 言葉通り、城光はただまっすぐにカズを見ている。本気で真剣に聞いている証だ。
 本気で、真剣に?昭栄を好きなのか、だって?
「……まぁ、あいつ練習は真面目やし、言うこつ聞くし?そーいうん嫌いじゃなかやけん、好きな方かもしれん」
 怖い。危険だ。この先を聞いてはいけない。予感がして、カズは城光から視線を外し、少し早口で答えた。これで終わりにしようと足早に家へ向かおうとするカズを、城光が引き止める。
「カズ、そげん意味で聞いとーんじゃなか。ちゃんとこっち見んや。」
 それ以外に、どんな意味があると言うのだ。しかしその言葉は墓穴につながる。かろうじて飲み込んだはずのその問いに、城光が答えた。
「好いとーやろ?タカんこつ。後輩や友達としてじゃなかぞ。お前、タカに恋しとる。」 「こい……?やめんや、笑わせんな」
「笑わせてなか。カズ、俺が冗談言っとーかぐらい、お前わかるっちゃろ?」
「わからん」
「嘘つくなや。わからんじゃなか、わかりたくなかだけったい。」
 ぐっと奥歯をかみしめたカズが、城光を睨み上げる。鋭すぎるその視線にも、城光は怯まなかった。
「今日、お前タカに怒鳴ったな。あれ、調子乗ったタカに怒ったんじゃなかやろ?」
「やめろって言っとーやろ」
「タカに向かってきゃぁきゃぁ言っとる女の子と、それに乗せられてにこにこしとータカにムカついたっちゃろ?」
「やめろっ!」
 ドン、思いっきり城光の胸を押して、カズが唸った。半歩下がって踏みとどまると、城光はまた口を開く。
「素直で懐いて、お前んこつ一番尊敬して甘えとー、タカが可愛かやろ?」
「後輩やけん当たり前っちゃろ」
「あいつの努力しとーとこ見て、お前嬉しそうにしとる。あげん顔、俺は初めて見たぞ。」
「嘘や」
「嘘か?ならタカ以外の奴で、お前がそげん執着しとー奴おると?」
「執着なんぞしとらん!」
「しとる。電話かかって来んで寝不足んなったり、用もなかのに連絡とったり、出不精のお前が家に一人で泊まりに行ったり」
「ヨシいい加減にせろ!」
「自分が一番タカん世話してやらんと嫌やろーが。タカが一番お前ば頼って来んと嫌やろ?おるか、他にそげん奴が。見とればわかる、お前にとって、タカは特別ったい!」

 唇が、戦慄く。違う、そんなんじゃない、そう言いたいのに声が出ない。
 カズの携帯の番号やアドレスを知る者は、選抜や部活の仲間だけだ。それも連絡事項以外の目的で使用することなど滅多にない。
 面倒が嫌いなカズが、頻繁に送られてくるメールにわざわざ返信を律儀にするのも、電話に出て他愛もない話に付き合うのも、嵐の夜、怯える背中をなでてやったのも、指導役を今も他人に譲っていないのも。
 昭栄だけだ。他にいない。いるはずもない。
「好き……?」
 口に出したら、全身に震えが走った。怖い。怖い。こんな感覚は知らない。未知のものが自分の体を巡っていくことにひどく狼狽して、カズはゆらゆらと首を振った。
「こげんこつ、わざわざ俺が言うんもどうかと思ったっちゃけど。今日のお前の態度見とって、自覚ないまんまそれじゃタカが可哀想やと思ってな。」
「それって、何……」
 弱々しく発せられた声に、城光は少し困ったように一度口を閉じた。しかしここまで言ってしまった以上、ここで黙る必要もない。
「普段なら休憩中もお前にべったりのタカが他ん奴と楽しそうに話しとって、おまけにあん女の子らはタカんこつ好いとーげな雰囲気やって、嫉妬したっちゃろ?」
 自分で聞いておいて、カズはその言葉に眩暈がするほどショックを受けた。何が一番ショックって、否定できないところがだ。
 イライラした。無性に。姿を見ないよう背を向けていても、笑い声や媚びた声が聞こえるだけで胃の奥底がムカムカした。
    俺、ほんとに、ショーエイに怒ったんじゃなかや…………。
 昭栄を取り囲んで騒いでいた女の子たちが嫌だった。もっと正確に言うなら、「昭栄を自分から遠ざけている」女の子たちが、嫌だった。子供みたいな独占欲。けれど昭栄へのそれは、もっと泣きたくなるような、胸を締め付けて離さないもの。


 その気持ちの原因なんて、古今東西、一つに決まってる。少女漫画も恋愛映画もろくに見たこともないけれど、そのくらいは知っている。今まで自分と一番縁遠かったその感情。
 昭栄が、好きだ。


 それを認めてしまったら、世界が崩れて、変わってしまう。だから今まで、見ないように、気付かないように、巧妙にかわし続けていたというのに。
「どうや、やっぱり違ったか?」
「……ヨシのアホ……っ」
 気付いてしまったら、認めるしかない。違うなんて、嘘でも言えなかった。それほど昭栄の存在は大きくて、好きだというこの気持ちは、すでにカズの心にしっかりと根を張っていた。
「こげん、信じられん、俺はっ……もう、どげんしたらよかかわからん!」
「まぁ、なぁ。」
「まぁなぁじゃねかろーが!!お前のせいやぞ、責任とって何とかせろっ」
 のんびりと頭をかいた城光のすねにゲシッと蹴りを入れて、痛みにうずくまる彼にもう一度、八つ当たりの拳骨を一発。
 ただでさえ恋愛なんてしている暇などないのに、よりにもよって相手は男。しかも後輩。ただでさえスキンシップ過剰に懐いてくる彼に、この先どんな顔で接しろと言うのだ。
 サッカーに苦手な人間関係に、一般大衆とは違う恋愛沙汰。一体自分は、どれだけ苦労して生きていけばいいのだろう。
「なぁヨシ、俺ってホモなん……?」
「知らんもう、俺は今それどころじゃなかやこん馬鹿力が……!!」
 口に出すと何だか無性に泣きたくなって、スポーツバッグに顔を埋めるカズと、痛みに悶絶している城光。門の前に二人揃って、しばらくうずくまっていた。



きっかけは些細でも、気付いてしまった事実は大きい。
それまで当たり前に信じていた世界や常識や自己が、崩れて変わってしまうほど。