卒業や入学のシーズンは注文も来店客も多くて忙しい。
そんな忙しさのピークも過ぎて、ようやく一息つけると思った頃、それは起こった。
町の獣医さん4
今日は二月と少しぶりくらいの休日。健康診断などで地元以外からも患者が絶えず、忙しく働いていた昭栄は、久々に寝坊できる朝に幸せな気持ちで寝返りを打った。
こうしてゆっくり寝ているのもいいが、たまには車でどこかに出かけるのもいい。花見のシーズンは終わってしまったけど、海は日に煌めいているだろうし、道には花が咲き零れているだろう。
せっかくやけん、やっぱ出かけるかな!
生来アウトドア派の昭栄はうきうきと飛び起きて、バックプリントに惚れ込んで買ったTシャツに着替える。少し色の落ちたジーンズを崩しめに穿いて、ひげを剃って……
ピンポーン!
急患を知らせるチャイムだ。少しがっかりしつつも、まだ出かけていなくてよかったとほっとして、階下へ駆け下りた。
「はいっお待たせしまし」
「たかやまっクロが……!!」
扉を開けると同時に、胸に何かが飛び込んできた。咄嗟に支えると、それは愛猫をタオルで包んで抱えているカズ。
「クロが、クロが今朝急に……っ!!」
今にも泣きそうな表情で、声も上擦って、完全にパニックに陥っているようだった。走ってきたらしく息が上がっている。とにかくこのままじゃ埒が明かないので、震えるカズの背を支えたまま診察室へ急いだ。
「……え、仮病……?」
「うー、ん。そげん言い方するとクロちゃんがかわいそうっちゃけど、まぁそげんこつですね。」
ぽかんとしたまま座り込むカズに、昭栄は苦笑した。
くてんと力の抜けたクロを寝かせたまま診察をしても、おかしいところはどこもなかった。以前の病気をぶり返したわけでもない。眼球の運動も正常。軽く力を入れて触診したときの反応も正常。
これ、もしかして……。
同じような反応を以前見たことがある。どこも悪くないのに、なぜかぐったりしているこの様子は、もしかして。
嫌がるカズを無理に診察室の外へ連れ出して、しっかりとドアを閉める。しばらくしてドアを開けてみると。
『え、クロ、なし……??』
ドアを開けようとしていたのか、先程まで鳴くことすらできなかったクロが目の前で元気に立ち上がっていた。
「クロちゃん、しまったー!て書いてあるげな顔してましたね。」
タオルの上に丸まったクロはふてくされた子供のようで、昭栄は笑いながらその背を撫でてやる。カズはまだショックが抜けきらないようで、
「なし、そげんこつ、クロが……?」
「人間の赤ん坊と同じですたい。寂しくて、構ってほしかやったんでしょうね。」
以前病気をしたとき、カズはきっと何よりもクロの様子を気にかけていたのだろう。ここのところ忙しくてろくに構ってもらえなかったので、病気になれば、と思ったのだ。
「カズさん大好き、こっち見て、ちこつですよ!」
膝に抱き上げたクロの前足をにゃんにゃんとカズに振ると、カズは安心したのかあきれたのか、診察台に突っ伏してしまった。
「もー……勘弁してくれ。心臓止まるかと思ったとよ……」
涙声に鼻をすする音。顔を隠したまま泣いているカズに擦り寄って、クロは反省した様子でみぃと鳴いた。
差し出されたココアを受け取って、目と鼻を真っ赤にしたカズがぽつんとつぶやく。
「俺の、親な……親も、朝起きたら倒れとって、脳梗塞、とかで。俺寝坊しとって、すぐ気付けんくて、助からんで……」
ゆらゆらとココアの上をすべる視線は、きっとその日を見ているのだろう。
「クロも、そうやって、はよせんと死ぬって、思って……」
だからあんなに息を切らせて、支えてもらわなければ立っていられないほど混乱して、取り乱した。
だって、置いていかれるのは嫌だ。もう二度と、失いたくない。
「大丈夫ですよ、ほら。クロちゃんバリ元気っちゃもん。ね?」
大きな手に頭をなでられて、カズはぼんやりと顔を上げた。優しい目、温かい微笑。懐かしい陽だまりのような記憶を呼び起こさせる、表情。
「大丈夫。クロちゃんは元気で、カズさんのそばにいますよ。」
そこでようやく我に返って、それと同時に今までの自分の醜態を思い出して、カズの顔は火がついたかのように真っ赤に染まった。
年下の、たかだか三回くらいしか会ったことのない奴に、涙は見られるし胸にすがりついたし、おまけに過去の話などうっかり漏らしたりしているではないか!
情けない、ありえない、信じられない!!
「お、俺帰る!!」
一声叫んで、クロを腕に抱いたカズは風のように走り去っていった。後に残されたのはぽかんとしている昭栄と、クロのお気に入りのたんぽぽが刺繍された真っ白なタオル。
「か、かわいい……。」
言うに事欠いてそれか、と自分でも思ったけれど、もうそれしか言葉が見つからなかった。
家に帰り着いてようやく、カズは自分が会計を済ませていなかったこと、更には焦りすぎてそもそも財布を持って行っていなかったことに気付いた。
あぁあ〜ばってん恥ずかしか!どげん顔して行けっちゅーんじゃ!
頭を抱えて苦悩するうちに、時間は過ぎていくのである。
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