出会ったのは一年ほど前になる。
新しい生活のペースにやっと慣れ始めた頃だった。


町の獣医さん2


 その日は朝から患者さんが絶えずに、ようやく一息ついたのは午後一時を回ったところ。午前最後の患者さん、チワワのくぅちゃんが小さな男の子とそのお母さんに抱かれて帰っていくのを見届けて、昭栄は大きく伸びをした。
「今日は忙しかやったな、タカ。お疲れさん。」
 カルテを整理しながら少し笑ったのは、このクリニック唯一の看護師、城光だ。彼には助手や受付など、診察以外の仕事を全てやってもらっている。
「はー、こげん日がたま〜にあるとですね。よっさんもお疲れです。さっさとご飯食べましょうか〜。」
 昭栄の言葉にうなずいて、城光は二階へと上がって行った。一回は診療スペース、二階は生活スペース。キッチンは当然二階にある。昭栄は料理が恐ろしく出来ないので、食事まで城光にお世話になっている。
 城光は、昭栄の大学時代のバイト先で看護師をしていた。卒業後自ら病院を持つと決めたとき、この町を紹介してくれたのは城光だった。
『俺の地元な、ペット多かのに病院がなか。小さい町やけん便利も悪かばってん、よかとこやぞ。』
 更にそこに行くなら自分も手伝ってやる、とまで言ってもらえた。尊敬する城光の薦めだし、と下見に来たその日に、不動産屋と契約をした。一目でこの町が好きになった。
 開業してしばらくは大変なことも多かったけれど、おおむね順調にやってこられたと思う。全ては陰で支えてくれるこの先輩のおかげだ。
「よっさん、毎日ありがとうございます。」
 昼食を前に殊勝に頭を下げる昭栄に、向かいに座った城光は一度首をかしげて、
「こんぐらい別に何ともなかぞ。ほら、はよ食べんや。」
 ご飯を作ってくれることへの感謝だと思ったようで、苦笑して箸を取る。言い直そうかと迷ったけれど、何だか照れくさくなって、昭栄も手を合わせて食べ始めた。


 午後はうってかわって、来客の影もない。診療室でぼんやりしていてもしょうがないので、昭栄は入り口にいる看板犬のもとへ向かった。日ごろ運動不足のケンのために、その手の中にはゴムボール。
「ケン〜、ちょぉ休憩。これで遊ぼう!」
 紐を解きながらボールを見せると、ケンが嬉しげに一声鳴く。目を輝かせて、ささやかな駐車スペースへ投げたボールを追いかけて行った。
 何度もその遊びを繰り返しながら、昭栄は玄関周りを見渡して少し眉を下げた。
    うーん、やっぱり何か寂しかよな、この入り口……。
 白い壁とスロープ沿いのレンガの階段は清潔でやわらかい雰囲気を求めてのものだったが、なぜかとてもそっけない印象を与えている。
 壁、スロープ、コンクリート。この組み合わせが何とも無機質なのだ。
 動物は病院を怖がる。小さな子供も、無機質な印象と注射の痛みを連想して泣くと言うから、動物もそうなのかもしれない。昭栄は自らの病院に、少しでも安心できる、入りやすい雰囲気を作りたかった。
    後でよっさんにも少し相談してみようかな。
 有効な打開策が思いつかず、昭栄はケンをなでながらため息をついた。こんなことでも城光の手を借りるなんて、ちょっと自分が情けない。

 もっと遊んでと振っていたケンの尻尾がぴくんと一瞬止まった。くぅんと鳴く声に、患者さんが来たとわかる。
 スロープの先に目を向けた昭栄は、その瞬間言葉を失った。

 まず目に飛び込んできたのは、黒いアーモンド形の瞳。まっすぐに澄んで美しく、目尻がすっとつりあがっている。
 少し長めの黒髪、細くとがったあご、小ぶりの唇、つんとした鼻筋。だんだんと輪郭をなして、昭栄の脳はやっとそこに立っている人の全体像を認識した。同時に、その人の腕の中の小さな黒猫の存在も。
「……今、診療時間ですか?」
 唇が開くと、白く整った歯並びがのぞく。思わず見惚れてしまった昭栄は、いぶかしげに寄せられた眉根にやっと我に返った。慌てて立ち上がる。
「あ、はい!あの、どうぞ!!」
 ドアを開けて待つ昭栄に、その人は少し困惑した表情で、
「……どーも。」
 一応の礼儀としての言葉だったけれど、昭栄の心はなぜか身が震えるほど揺さぶられた。


「カズ、どげんした?」
 読んでいた新聞から顔を上げた城光が目を丸くする。カズと呼ばれたその人は、城光の顔を見て安心したのか、少し表情を緩めた。
「ヨシ……こいつが。」
 カズの瞳が、愛しげに腕に抱えた黒猫を見つめる。飼い主の視線を感じたのか、猫は甘えた様子で、にゃぁ……と弱々しく鳴いた。
 お知り合いですか、とかどういう関係、とか。聞きたいことはたくさんあったけれど、その弱った鳴き声に全て吹き飛ぶ。白衣まで脱いで完全にリラックスモードだった昭栄は、眼差しを厳しくして頭を切り替えた。
「よっさん、先に診察します。飼い主さんも、書類の記入は後でお願いしてもよかですか?」
 きょとんとしているカズを診察室に促して、昭栄は白衣を羽織る。集中するため一度息をつき、診察に取り掛かった。

 人見知りをするらしく、その猫はカズの腕から離れることを嫌がった。弱っているのに無理強いをするのはかわいそうだが、放っておくわけにもいかない。
「お名前は?」
 顔を上げた昭栄の突然の問いに、カズは何のことだかわからず、
「え、カズ……」
「あ、や、そっちじゃなくて……猫ちゃんの……」
「あー……。クロ、です。」
 噛み合わなかった気まずさに微妙な空気の診察室へ、笑いをこらえながら城光が入ってくる。
「カズ、なんボケとーと?お前そういうキャラじゃねかろーが。」
 手に持った書類を昭栄に渡しながら言う城光から、カズはすねたような表情で目をそらした。
「しょーがなかやろ!俺病院あんま行ったこつなかし、ペットの病院なんぞ初めて来るし。どげんするもんかいまいちわからん。」
 突然くだけた空気に正直ほっとしながら、昭栄は怯えるクロの背を優しくなでる。
「クロちゃん、こんちは。俺は昭栄っていうとよ。よろしくね〜?」
 少し緊張の緩んだクロを抱き上げて、あやすように触診をしていく。始めは硬さの残っていたクロも、昭栄の優しさに安心したのか、大人しく身を任せた。

 この医者は腕がいいんだな。
 気難しいクロがあっさりとなついた様を見て、カズは少し驚いた。正直最初は、白衣も着ず入り口の床に座り込んで犬とじゃれていたので、見習いの学生か何かだと思ったが。
 すれたジーンズとスニーカーで、流行のデザインの眼鏡にへにょんとたれ目。それでもこうして白衣を着て、真剣な眼差しをしていると、それなりに見えるのが不思議だ。
    うーん……白衣効果?
 カズがしげしげと眺めて失礼なことを思っているうちに、診察は終了した。注射もされたが、すっかり昭栄に気を許したクロは暴れたりもせず、
「いい子やね〜!よぅ我慢したね、偉か〜!」
 なでなでと褒められて、嬉しそうに鳴き声をあげている。クロはカズ以外には気を許さず、近所の人まで警戒し、城光ですら打ち解けるまで時間がかかったというのに。
 アホっぽいのに、腕は確かなんだなぁ。カズはまた失礼なことを思った。


 四日後くらいに暇を見てもう一度来てください、という言葉を最後に、カズは愛猫を抱き上げて診察室を出る。
「お世話になりました。」
 ぺこっと頭を下げて受付に向かうと、城光が座って待っていた。暇なのか昭栄も出てくる。今度は白衣を着たままだったが緩んだ雰囲気で、やっぱり学生に見えた。
「高山せんせーは、おいくつデスカ?」
 便宜上の敬語はあまり使い慣れていないせいかぎこちない。そのせいなのか、昭栄は少し緊張した風である。カズとしては、別に威嚇をしているつもりはないのだが。
「あ、今25です。今年の夏で26の……」
 なるほど、年下か。幼く見えるわけだ。いつまでも学生時代のままだと評判の自分の童顔は棚に上げて、カズはふぅんとうなずいた。
「カズ、会計の前にこれ書いて。」
 城光に促されて書類を見る。ペットの名前、飼い主の名前、住所……何だか面倒くさいことだ。
「ヨシ。これ本名、やな?」
 ペットの名前の辺りをつんつんと指して言うカズに、城光は一瞬目を泳がせて、嫌そうにうなずいた。一方カズは少し嬉しそうに書き込んでいる。
 地元同士で知り合い、友達。と言うには少し深そうな親密さに、昭栄が遠慮がちに口を開いた。
「あのー、よっさん。お知り合い、ですか?」
「あー、こいつな、俺の幼馴染ったい。話したこつあるっちゃろ?」
 確かに、城光のすごい幼馴染の話は聞いたことがある。高校のサッカー部で鬼副主将と呼ばれていたとか、生意気だと突っかかってきた空手部員を返り討ちにしたとか、街でカツアゲしてきた不良を叩きのめしたとか……
 そんなだから、筋トレが趣味の城光に負けない、筋肉隆々のごっつい男だと思っていたのに。
 しかし目の前の幼馴染だという人は、小さいし全然ムキムキじゃない。むしろ華奢な方だ。首とか細いし。目が大きくて顔きれいだし。甘えて擦り寄る猫を愛しげになでる姿なんて、何ていうか、かわいいなぁもう!てかんじだ。
 こんなにかわいいのに、どうやって空手部員や不良を返り討ちにするというのだ。
    うそや……現実についていけん……!!
 昭栄が苦悩している間に会計を済ませたカズは、城光に手を上げ、昭栄には軽く頭を下げてドアを開けた。
「っあ、あの!」
 慌てて声をかけてきた昭栄に、ふり返ったカズは少し首をかしげる。
「あの、お名前は!?」
 思わず呼び止めたはいいものの何も考えていなかった。だからと言って、これはないだろう。案の定、カズはちょっと眉根を寄せて困惑顔。
「え、だけんクロって……」
「あ、や、そっちじゃなくて……その……」
 あなたの、と言うのがなぜか恥ずかしくてもごもごと言いよどむ昭栄と、?顔のカズのすれ違いっぷりに、今度こそ城光が噴出した。
「なん笑っとーと?」
 本気でわかっていないカズの言葉に目尻を拭う。
「タカが聞きたかなんは、お前の名前たい。」
 あぁ、そういえば名乗っていなかったな。あっさり納得して、カズは昭栄に向き直る。たかが名前を聞くだけに、内気には見えないこの男があんなにためらうほど、自分は怖い顔をしていたのだろうか。
    うーん……否定は出来んな。
 自らの過去を思い返して、カズは少し苦笑した。
「功刀一や。カズでよか。お前ヨシの後輩っちゃろ?ならそげん怯えんでもよかぞ。」
 誰彼構わず殴ってまわる趣味はない。そう言うとよっぽど安心したのか何なのか、昭栄はひどく嬉しそうに笑った。
「……はい、カズさん!俺は高山昭栄です!これからよろしくお願いします!!」
 挨拶にうなずいて、今度こそ入り口を後にする。
    あいつ結構体育会系っちゃな。しかもめげないタイプ。
 自分は性格的に、くよくよ悩まれるタイプとは合わないらしい。城光の後輩と気まずくなるのは嫌なので、うまくやっていけそうでよかった。
 腕の中のクロは大分元気になってきて、にゃぁにゃぁと鳴いては擦り寄ってくる。昼は鳴き声もあげないほど弱っていたからひどくほっとした。
「お前は俺んこつ置いていくなよ?」
 額に口付けてささやくと、クロはなぐさめるようにカズの頬を舐めた。


 功刀一さん、かぁ〜……。
 ほわんとした気持ちで先ほどカズが記入していた書類を手に取った。それを見た瞬間、本日二度目のフリーズ。
【ペットの名前:クロ・エベレスト・オホーツク】
 ……ほんとに、言葉が見つからない。

 後で聞いたところによると、その名前はカズが、山のように大きく海のように深い、そんな男になれ!とつけたものらしい。ちなみにファーストネームがクロなのは、城光が一晩中説き伏せた結果の大進歩だったとか。




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