君の好きな快晴の空と、僕の好きな透き通る海の色。
この青い車で、海へ行こう。


町の獣医さん 11


 腕の中から飛び出すように逃げてしまった彼を、もう二度と放したくないから。
 日の出と共に、覚悟は決まった。
 もう、何も怖れない。傷つけるだろう、嫌われるかもしれない。それでも。

「や……帰れ!どこから入ってきたと!?」
「クロちゃんが鍵開いとる窓教えてくれました。ラッキーやったけど、カズさんこれからは気をつけんといかんよ」
 朝からしつこくインターフォンを鳴らし続けて、挙句不法侵入までしてきた昭栄に、カズはクッションを投げつけて怒鳴った。
「帰れって言っとると!」
「帰りません。カズさん、来る前入れた留守電聞いとったでしょ?早く準備して、もう一回お父さんに会いに行こう」
「嫌やって、……!」
 家主を無視して仏間に向かって行く昭栄を、カズは蒼白になって追いかけた。手を合わせてそっと小さな入れ物を取り上げた姿に、唇を戦慄かせる。
「なん、な……お前、何しとるかわかっとるとや!?ひ、他人の……っ!!」
 怒りと怯え、混乱で言葉が紡げないカズの腕に、昭栄はしっかりと壷を抱かせた。
「カズさんの、大事なお母さんや。乱暴しとるこつ謝りたかけど、これからもっと勝手するけん。謝罪もタコ殴りも後にして」
 ぎゅっと、肩を掴まれて。真摯な瞳に覗き込まれる。
「大丈夫や、今日はいい天気です。」
 何が、大丈夫だなんて、そんなこと。お前にわかるはずない。そう言いたいのに、声が出なかった。
 触れたてのひらが、見つめる瞳が、泣きたいくらい心地よくて。


 青い車が、青い空と青い海の真ん中で止まった。
 昨日はあんなに不気味で不吉で、今にも自分たちも飲み込まれてしまいそうだったのに。
「カズさん!バリよか風吹いとるよ!」
 一足先に外に出た昭栄が、大きく伸びをする。壷をぎゅっと抱えたまま助手席で視線を揺らしているカズに手を振って。
 まるで後押しするように吹いた初夏のからりとした風。
 昭栄が開けたままにしていたドアから、そろりと降りて一歩二歩、そこで立ち止まってしまったカズを。

 ぎゅうと。溢れ出る愛しさに任せて、ぎゅうと抱きしめた。
「カズさん、好いとると。好き、だいっすきや!せかいでいちばん、カズさんがすき!!」
 だから大丈夫。もう二度と、独りにしない。絶対に離さないから。だから、だから。
「がんばったね。これからは俺がおるけん。もう、我慢せんでよかですよ。」

 がんばれとは、数えきれないほど言われた。がんばっていると、そう言われたのは初めてだった。
 張り詰めたものが染み渡る体温と一緒にゆっくりと緩んで、ぷちんと切れて。
「…………ぇい」
 強くありたくて、誰にも言えなかった。
 寂しかった。独りは苦しかった。誰もいない家に帰るのが怖かった。置いて行かれるのが嫌で、誰も求めないことにした。ずっとここに来たかったでも来たくなかった認めたくなかった、でも本当はずっと、ずっと。
 一緒に行こうって。一緒にいるよって。
「そ、いってほしかっ…………!」
 零れ落ちた涙はもう止められなくて、みっともないと思うのに昭栄が微笑むから、ぎゅっと抱きしめたままでいてくれるから。

 快晴の空の下で降り注いだ涙の雨は、何年も何年も胸の底を覆っていたたくさんの何かを洗い流して。
 残ったのは、一つの光。
「……れも、しょ、ぇいが、……すきや。」
 子どもみたいに全身で泣いて、目は重いし身体に力は入らないし、声なんて掠れきってとても格好がつかない。
 でも、もういいんだ。ちゃんと気持ちは伝わった。無理しなくても、気負わなくても。
 瞼に触れた唇がそっと重ねられて、きゅうと胸が詰まる。懐かしい陽だまりの温かさを宿す腕、花開くような笑顔。
    間違いなか。ここが、俺の居場所ったい。
 最後に一粒、ぽろんと、涙が落ちて。腕の中の母が、微笑んでうなずいた気がした。


 結局父の遺体は見つかっていないし、母の灰を手放せば本当に二人とは別れてしまうのだと、ためらう気持ちがなかったと言えば嘘になる。
 それでも、海を後にするカズの心は、不思議と穏やかで。凪いで痛みをこらえるのではなく、ゆったりとたゆたう海のように、自然な静寂を取り戻していた。
「…………あ。」
「?」
 ハンドルを握る昭栄が、何やら苦いような照れたような、困った顔で笑みを寄越す。
「クロちゃんとケン。カズさん家に置き去りにしとるの忘れてた。」
 ぱちぱち、カズの大きな瞳が瞬いて。
 そう、確かに。半ば連れ去られるように車に乗せられる寸前、開いた助手席からケンが飛び降りて、二人の雰囲気に怯えて玄関口で足を竦ませるクロのもとへ。
 視界に捉えてはいたのだ。今の今まで、認識できてはいなかったけれど。
 ゆっくりと、カズの顔色が白く失われていく。
 家を出たのは午前。今は既に日の角度も傾きかけている。帰り着く頃には。

「はっ……早よせんや!!アクセル踏めーーーー!!!」



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