ぱらぱら、ウインドウに落ちる雨粒の音も密やかに。
ここは世界と切り離されて、あなたの声しか聞こえない。


町の獣医さん10


「命日?」
 例年より長めの梅雨が、それでもそろそろ明けようかという頃。翌日は随分久しぶりに予定通り休みがとれることになって、今日は飲み明かそうと城光と杯を傾けていたとき。
 もうすぐ命日だなと、何の脈絡もないつぶやきに(この先輩は大事なことほどこうなんだと、昭栄は最近思っている)面食らった昭栄の視線を、城光がまっすぐに捉えた。
「昭栄、お前に頼みがある。」


 細かい雨が降る中を、昭栄はゴツいフォルムに海と空の間の色が自慢の愛車を商店街の裏通りにつけた。目の前には、カズの店の裏口。チャイムを鳴らそうと伸ばした指を止めて、逡巡するようにこぶしに握り込む。
 昨夜城光に聞かされたのは、何となく予想はついていたけれど、カズの両親についての話だった。
 カズや城光が中学生の頃、カズの父親が事故死して。高校三年時、母親も病で他界して。大学に進むかプロサッカー選手になるか、選ぶはずだったどちらの未来も捨てて、カズは両親の愛した家と店を守ることを選んだ。
 もう十年近く前のこと。しかしまだ、カズには果たせていない母との約束があるらしい。
『もういい加減、あいつも腹くくらんといけん頃ったい。』
 カズのこれからのためにと言われ、自分が協力できるのならばと、思ったのだけれど。
    本当に、これでよかっちゃろーか。
 その全ては、城光の口から語られたもの。自分がそれを聞いたと知ったら、カズはどんな気持ちになるだろう。
 ただ、カズをある海へ連れて行ってやってくれと、それだけ頼まれてここに来た。理由も内容も知らないけれど、おそらくその海はその約束に関わる場所で、そこへ行こうと言うことは、きっとカズにとって大きな衝撃に違いない。
    大体、そげん重要な役目ば頼むんが俺って……。
 あの冬の日から、確かにカズと過ごす時間は増えた。最近では会えば必ず食事をご馳走してくれるし、休日には広場でのんびり過ごしたり、隣町の大きな公園まで歩いてみたり、一日一緒にいることも少なくはない。
 それでも、カズが昭栄に対して、城光には向けない微妙な距離を保っているのも感じている。
 城光でさえ手を出せない領域に、自分が踏み込むことなど、許されるのだろうか?
「高山……?そげんとこで突っ立って、何しとる?」
 降ってきた声にはっと顔を上げると、二階の窓からカズが顔を出していた。
「ちょぉ待っとれ。すぐ行くけん」
 言葉通り戸惑いも見せず、カズの頭がぴょっと中へ消えて、すぐに裏口の戸が開いた。
「あ、れ?カズさん、その荷物……」
 驚いたのは、カズが手提げのバッグとクロを抱き、靴を履いて出てきたから。
「ん……遠出になるけん、弁当。」
 伏し目がちにそう言うと、カズはするりと昭栄の横を抜け助手席に乗り込んでしまう。
 何と言って誘ったものか、散々逡巡していた昭栄は、ぽかんと口を開けてそれを見ていた。

 後部座席でケンと一緒に寝そべったクロを振り返って、ついでに車内をぐるりと見回し、カズがふぅんと鼻を鳴らす。
「綺麗に使っとるな。」
 車の中にはごみも落ちていないし、おそらくケンを乗せるためだろう、後部座席のカバーも綺麗に洗われている。昭栄は煙草を吸わないから、おかしな臭いもしない。城光が片付けないと荒れる一方だという昭栄の居住スペースとは雲泥の差だ。
「そうですね、マメに掃除しとります。特にこいつは、ボディカラーも特別製、予算オーバーを粘って粘って手に入れた奴ですけん」
 ハンドルを捌きながら笑う昭栄はまるで家族を自慢する子どものような表情で、カズも思わず口元を緩めた。
「あの」
 前を見たまま、昭栄は躊躇いがちに口を開く。
「その、今日は。」
 何と言ったものかと眉を寄せていると、カズがすいと外へ顔を背けた。
「……ヨシに聞いた。あそこに行くなら、三時間くらいかかるやろ?寝とるけん、着いたら起こせ。」
 そう言ったきり、カズは外を向いたまま少し体を丸めた。持ち込まれた弁当は、バッグの大きさからしておそらく重箱の類だろう。眠れなかったのだろうか。
 実際見ればその背中はどこか緊張していて、浅く繰り返される呼吸が痛々しい。せめて少しでも楽に眠れるように、昭栄はできるだけ丁寧に車を走らせた。


「ここには親父が沈んどる。」
 包むように降る雨のせいなのか、着いたその海はどうにも物悲しい色をしているように思えた。
 車が止まったのに気付いたのだろう、カズは顔を上げるとぼんやりしたままその海を眺めて、しばらくするとおもむろに弁当を取り出し始めた。
 近くに行ってみなくてもいいのかと、訊ることは簡単だったけれど。
 シートを倒して広げたスペースに並べたお重をつつきながら、カズがぽそぽそと語るのを、昭栄はただ黙って聞いていた。言うべき言葉も見つからなかったし、返答を期待する話し方ではなかったから。
 それは、カズが中学に入ってそう間もない頃。
「俺は西日本じゃトップって言われとるGKで、そん日は新人戦やったかな。中学最初のレギュラー出場の試合があった日やった。」
 応援に来ると騒いでいた母親が結局最後まで顔を見せなくて、安心したような拍子抜けしたような気持ちで帰宅してみたら。
「じーさんにな、こげん大変なときに何が球蹴りごっこかって、いきなり殴られて。当たり前じゃ、親父が事故で車ごと海に沈んどるのに」
 この辺りはその日酷い雨だったらしい。縁戚の発注で配達に来ていた父親は、居眠り運転で雨にハンドルを取られたトラックに突っ込まれ、トラック諸共この海に飛び込んだという。
「車もトラックもそん運転手も見つかったとばってん、何でか親父は上がってこんかった。今もや。結局、遺体もなかのに葬式やって。棺は軽かし骨もなかじゃ、全然実感わかんよな」
 だからカズは墓参りに行かなかったし、母親も行こうとは言わなかった。その代わり、何度も何度も言ったのだ。
「自分が死んだら、灰は親父のおる海に流してくれって。」
 遺灰は墓に納めなかった。望みを叶えてやりたかったから。けれど、結局。
「……今日、初めてここに来た。不気味な色、しとるな。」

 心身ともに限界だったのだろう。クロを抱いて丸くなって眠るカズを後部座席に移して、ケンを助手席に昭栄は来た道を戻った。
 カズがはっきり言わなかったけれど、昭栄はもう一つ、カズの傷を深めた原因を聞いている。
 実は彼の母親が倒れたとき、カズは前日までサッカーの遠征で本州へ出ていたらしい。溜まった疲労を癒すために午後まで眠って、走り込みに出ようと起きてきたら、既に冷え切った母が横たわっていたという。
 どうやら倒れたのは朝方、いつもならカズも起きている時間で。発見が早ければ助かったはずだったと、そう医者に告げられて。
 父の死に向き合えないまま母をも失い、カズは自身を酷く責めた。
 それ以来カズは、小さな頃から大好きだったサッカーを、すぐそこに見えていたプロの道を、まるで忘れてしまったかのように生きている。
 そうしたかったんじゃない。きっと、そうしなければ耐えられなかったのだ。
    やっぱり、やめた方がよかやったんかな……。
 十年も抱え続けている傷を、自分は抉ってしまっただけだった。大好きな人のため、何かできないか、何もできないのか。不甲斐ない自分に泣きたくなって、昭栄はハンドルを握る手に力を込めた。


「カズさん、カズさん。着きましたよ」
「んぅ……」
 優しく頭を撫でると、カズは目を閉じたままごねるように身を捩る。寝顔が子どもみたいに頼りなくて、起こすのが可哀想になる。このまま部屋まで運ぼうと抱き起こした、そのとき。

 夢うつつの中で、優しいぬくもりと懐かしい陽だまりの匂いに包まれて、カズはとても安堵した。
 もう二度と離れないで、置いて行かないで、そばにいて。一心にぬくもりを抱きしめて、幼い頃にしたように、甘えた仕種で顔を寄せて。
 唇に触れた感触にふと目を開けたら、呆然と目を瞠る昭栄の、ドアップ。
 一体自分が何をしたのか、その一瞬で理解した。



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