数日ぶりの心地いい睡眠から目覚めて、隣で眠る男の頬をなでる。
窓からは柔らかな朝の日差し。ここだけはいつも、嘘みたいに平和な世界だ。


Rainy shadow 5


「腹へったな……」
 ぼんやりと寝転がったまま、カズはつぶやいた。人間の三大欲求は睡眠欲・食欲・性欲。丸一日の快適な眠りと満足なセックス、これであとは久しぶりのまともでおいしい食事があれば完璧。
 けれど、昭栄の方はどうだろうか。他の誰の気配にも慣れない昭栄は、親の巣穴で眠る獣のように、カズのそばでなければ目を閉じることもできない。
    可哀想なやつ。
 カズに拾われて、自分は生まれ変わったのだと笑った。そのくせ、このアジトの中の仲間でさえ、誰一人昭栄は信用しない。言葉も交わさないし、目も合わせない。この部屋を一歩出ると、昭栄はただカズの後を追って歩く人形のようだった。
 へにょ、とたれ目を細めて笑う。首を傾げて不安そうにカズの目を覗き込むとき、頭一つ分は優に高い身長で器用に上目遣いをする。抱きつきたがるのを許してやると、嬉しげに頬を擦り寄せてくる。
    可愛いやつ。
 昭栄を不気味で不吉な厄介者だと思っている奴らに、少しでも見せてやればいいのに。
 そう思う一方で確かに、昭栄がただ自分だけを選び求め続けることに、途方もない悦びを感じていた。

 昭栄とこんな風に関係を持つようになったのは、いつだったか。
 別に好きだとか愛してるとか、今日から恋仲になりましょうとか、そんなことを言い合ったわけじゃない。そもそもこの関係の根底に、そんな甘やかな感情があるのか、甚だ疑問だ。
 イイとかもっととか舐めろとか、もっととんでもない台詞も結構口にしているけれど。性的快感や支配欲や優越感は、恋愛感情と言っていいものか。昭栄が自分へ向ける視線など、まるで唯一神に対する熱心な信者である。それも異常に狂信的な。
 この名前のつけ難い、不可思議で非生産的で、しかしとても居心地のいい関係は、ふと昭栄が自分の背を越してしまったことに気付いた頃。ある夜から始まった。


 その日は少し酒を飲んでいた。軽い酩酊感がひどく心地よくて、煩わしいネクタイとベルトを放り投げて、ソファに転がってうとうとしていた。
 仕事が忙しかったり単に面倒だったり、カズが着の身着のままそこらで転がって眠ることは珍しいことじゃなく、世話係の昭栄が真っ先にうまくなったのは「カズを起こさず着替えさせること」だった。
 だからそのときも、そうしていれば昭栄が着替えさせてくれて、体が冷える前にベッドに運んでくれる。そう思って安心していて、少し深く眠ってしまっていた。
 目が覚めたのは、おそらく本能が違和感を感じ取ったからなのだと思う。
 シャツのボタンを外す指が、妙に震えていた。ごくり、と喉を鳴らした気配が昭栄以外の誰かだったなら、この時点で殺意をもって飛び起きていただろう。
 けれどそのとき、カズは何故か、目を開けてはいけないと強く思った。首筋から胸へ、震える熱い唇が触れたときも、下着をずらして、柔らかなそこに触れられたときも。
 痺れそうなほど熱い舌が、亀頭をチロリと舐めて。そこで我に返ったのか、昭栄は服の乱れを直すのもそこそこに、部屋を飛び出して行った。
 その間カズは一切動かなかったし、声も上げなかった。怖くて動けなかったんじゃない。そうしようと思わなかったのだ。

 欲望が率直に渦巻くこの裏社会で育ったカズは、自分がその手の人種に受けのいい見目をしていることを、かなり早いうちから理解していた。
 実際過去には城光が形相を変えるほど危険な目に遭ったこともある。そのときはあわやというところで助けられたし、ボスの息子に不埒な真似をする馬鹿はそうはいなかったけれど、熱心に鍛錬に励んだのには護身の意味もあった。
 元より他人と肌が触れ合うのを好まないカズは、男も女も特に欲しいと思ったことがなかった。試しに女と寝たことはあるが、体液が混ざること自体が汚く感じて嫌だった。ペニスに触れば気持ちいいけれど、自分で求めてすることもない。
 カズを欲しがる男の中には、外見だけで虫唾が走るほどいかにもな奴も、何億積まれたってごめんな変態野郎もいたけれど、一晩くらいならなびいてもおかしくはないイイ男も結構いた。
 けれど、今まで一度も、こいつならまぁいいかな、と思ったことはなかった。身体に触れられそうになれば、容赦なく制裁を加えて拒んだ。
 それなのに。
 昭栄は他に寄る辺のない可哀想な子どもで、自分が拒めば居場所を失うだろう。だから同情して黙っていてやった?
 答えは否だ。そんなこと、カズが嫌だと思うなら、どうでもいいことだった。カズは確かに昭栄を気に入っていたけれど、カズが我慢をしてやる義理など一切ない。
 この身は自身の器であると同時に、ファミリーの面子も背負っている。カズが自分自身より大事にすべきものに、一個人は含まれない。昭栄はもちろん、城光でさえもだ。
 では、なぜだろう。
 それが知りたくて、その翌晩、カズは昭栄を浴室へ誘った。

 背中を流せ。とろみのある泡で埋まったバスタブに浸かるカズがそう言うと、浴室の隅で可哀想なくらいかちかちに固まってうつむいていた昭栄がびくっと震えた。
『何?いつもやっとるこつやろ。ほら、早く』
 カズの背中を流し、髪を洗い、着替えを用意し、身体を拭いてそれを着せる。初めは昭栄が恥ずかしがるのを面白がってやらせていたことだが、案外に昭栄の甲斐甲斐しさが心地よく、ものぐさも手伝って今では習慣になってしまっている。
 それをいきなり断るのはおかしい。手招きすると、昭栄もおずおずとではあるが近寄ってきた。ズボンとシャツの裾を折って、膝をつく。
『先に髪、洗いますね。』
 うんとうなずいて、顎を上げて目を閉じた。成金の証みたいな猫足のバスタブ。このアジトに移って最初に見たとき何て趣味が悪いんだと鼻白んだが、湯に浸かったまま頭を洗ってもらえるのは悪くない。
『熱くなかですか?』
『ぅん……』
 爪を立てないように、指の腹で頭皮を揉みこむ。これが絶妙な力加減だ。ポカポカとろとろと気持ちいい。春の日向の昼寝みたい。
『おまえのゆび、きもちよかー』
 ぽややんとした声に、昭栄がちょっと笑った気配がする。目を開けたら、ばっちりと視線が合った。一日挙動不審だった昭栄と目が合ったのは、今日はこれが初めて。
 たれ目を丸くして動きを止めた昭栄は、数秒経って我に返ると、さっと視線を逸らした。
『流しますけん、目ぇ瞑っててください』
 何でもなさを装ってはいるが、手付きに動揺が伝わっている。髪を流し終えたらどんな理由をつけてでもここから退散しようという風の昭栄に、カズは奇妙に意地の悪い気分になった。
 そんなに出て行きたいなら、引き止めてやる。そのためなら何だって。
『っ、痛!』
 息を呑んで目を覆うカズに、背中を向けかけていた昭栄が慌てて振り向いた。
『か、カズさん!?どげんしたと!?』
『泡、はいった……』
 入るわけがない。どんなに動揺していても、昭栄がそんな乱暴にカズを扱うなどありえないことだ。しかし急いた自覚のある昭栄は、カズの弱々しい声に動転して、シャワーを放り投げて飛んできた。
『カズさん大丈夫!?こすっちゃ駄目、ちょぉ見せて……』
 濡れた肩を抱いて手首を掴んで、涙に濡れたまつげが被る瞳を覗き込んで。

 飲み込まれた。そんな感覚だった。
 潤んだ瞳とか上気した頬とかしっとりした肌の手触りとか、少しだけ開いた唇から覗く真珠色とか、思考を停止した脳はそんな画ばかり受信して。
 昭栄は気付かない。頼りなげに昭栄を見上げる愛らしい表情の裏側で、カズはぺろりと舌を出した。
 まつげが濡れるのは涙なんかじゃなく湯気のせいだし、頬の紅潮も肌がしっとりなのも風呂だから当たり前だし、血色のよくなった唇に対比して歯の白さが艶めかしく見えることも、上目遣いの破壊力も、全部計算だというのに。
    なんてわかりやすい、なんて簡単な。なんて、可愛い。
 ゆっくりと目を閉じて、そっと唇を寄せた。すぐそばの唇に触れる。弾かれたように震えた昭栄のその反応に、

可愛い欲しい喰い尽くしたい暴きたい暴かれたい触りたい触ってほしい、

全部、昭栄の全部を、俺のものにしたい。

 知らなかった感情が荒れ狂う胸が苦しくて、喘ぐように息をつく。今度は演技なんかじゃなく、本当に涙が浮いて濡れた瞳で、指先を震わせて見つめてくる昭栄を呼んだ。
 媚びるような声で強請るのは、初めての経験だった。


 結局、粘膜を触れ合わせても体液が混ざり合っても、残滓を全て拭い去った後も、昭栄との行為を気持ち悪いとは一切思わなかった。
    それどころか、今じゃこれやもんなぁ……。
 はっきり言えば、アレもコレも何もかも気持ちよすぎて、すっかりハマってしまったのである。
「……ぁずさん?」
 昭栄の髪をなでながらぼんやりとしていたカズは、掠れた声に目を向けた。いつの間に起きたのか、昭栄はしぱしぱと瞬きながらカズを見上げていた。
「ん……まだ寝るか?」
 まぶたが腫れぼったい。好きなだけ寝かせてやろうと思ったが、昭栄はカズが起き出そうとしているのを察知したようで、ぎゅうと抱きついて首を振った。
「カズさんとおる。」
「またセックスか?性欲魔神が、俺は腹減って死にそうったい」
 明け透けなカズの言葉に明るい声で笑って、昭栄が起き上がる。一緒に抱き起こされたカズは、昭栄の鼻を摘んで、満足そうに微笑んだ。
「おはよ。」
 ほんと、ここだけはいつも、嘘みたいに平和な世界だ。



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