声を殺して泣くその背中に、
人生最大の過ちを犯したと気づいた。




 ぱちっと目が開いて、枕元の時計を手に取る。珍しく目覚ましが鳴るより早い時間だった。気持ちのいい目覚めに、昭栄は勢いよく起き上がり伸びをする。
 今日は、合宿以来二週間ぶりの選抜練習日だ。夏の大会が終わったメンバーだけが集まる予定だから、カズは来ていないかもしれないけれど。
    カズさんにも注意されたし、今日ははよ行こう。
 さっさと準備をして、ジャーからよそったご飯をかきこみ、牛乳を一気飲みして一息ついた。歯を磨いて普段より入念にスタイリングをして、家を出る。一時間以上早く着きそうだったが、朝練でもしていればいい。昭栄は弾む足取りで駅へと向かった。
 しかしその足は、目指すグラウンドが目に入った瞬間に止まった。

 そこには、30人くらいだろうか。少年たちがそれぞれに準備運動をしている。半分は水色のユニフォームで、もう半分は黒と赤のユニフォーム。
「……え?」
 思わずフェンスに手をかけて覗きこんでいると、見慣れた迷彩の帽子を見つけた。何やら考え込んで、時計を見てはため息をついている。その目がこちらに向いた途端に、大音量が響き渡った。
「ショーエイそこで何しとーや!!!はよせろーーーーーー!!!!!」
「ははは、はい!!すんません!!」
 条件反射で謝って、全速力でカズのもとに辿り着いた昭栄に、カズは容赦なく鉄拳の雨を降らせる。
「お前、この前言ったこつ聞いてなかやったと!?遅刻すんなって言ったろーが!!」
「え、や、だけん今日の練習ははよ行こうって……」
「何言っとーやアホが!!今日は練習試合じゃーーーー!!!!」
うそ、マジで?


「ふーん、なるほどな。確かに練習やと思って来たなら随分はよ来とーな。試合もまだ始まってなかし。」
「はぁ……すんませんっした!!」
 遅刻の謝罪をしに来た昭栄に、監督は腕組みをしてそう言った。勢いよく頭を下げる昭栄に、同様に監督の前に並んだ城光も頭を下げる。
「すんません、俺の連絡が行き届いてなかやったとです。」
「なし、ヨシが謝るん?人の話も聞かん、予定確認もせんかったこいつの責任っちゃろ。」
 むすっと眉根を寄せたカズに、昭栄が更に縮こまる。それを見た監督は、何やら企んでいるかのような笑みを浮かべた。
「そうやなぁ、城光は謝る必要はなかな。高山以外は全員きちっと集まっとーし、抜かりがあったとは言えんっちゃろ。」
 その言葉にカズと昭栄は少しほっとして肩の力を抜く。しかし、城光はいぶかしげに眉を寄せた。昨年来、監督のこの表情の後、そういいことは起こらない。
 案の定。
「そういえば功刀、合宿の最後の日、俺が言ったこつ覚えとーか?『最近高山が遅かやけん、お前からも注意してやれ』って言ったはずとやけどなぁ。」
 嫌な予感に、カズが慌てて答える。
「言いました。次は練習試合やけん、はよ来いって」
「ばってん現実に、高山は練習試合ば知らんかったらしかぞ?」
 ぐっと詰まってしまったカズの代わりに、昭栄が必死に弁明をした。
「違います!そんとき俺ぼーっとしとって、カズさんが『だけんはよ来い』って言ったとこだけ聞いて、次の練習んこつやと勝手に思ったとです!!カズさんはちゃんと……!!」

「高山、功刀。両名今日の試合は謹慎とする。」

 無常に言い渡された言葉に、昭栄はそれでも食い下がる。
「そんな、監督!!遅刻したんは俺です!!カズさんは何も……」
 相手ベンチへ挨拶のため歩き出していた監督は、振り向いて一言告げた。
「高山、これは連帯責任たい。」
 あまりにも横暴な、有無を言わせぬ強さの声に、昭栄は呆然と立ち尽くす。城光も苦い顔をして、しかし何も言い返せず監督の背中を見送った。
 カズは一人、視線も揺らさず、ただきつくこぶしを握って立ち尽くしていた。
「カズさ……」
「せからしか。」
 昭栄の泣きそうな声を、カズの鋭い声がさえぎる。そのまま何も言わず、カズはベンチに座り込んだ。


 試合が始まると、ベンチに座ったままのカズを見て、全員が不思議そうな顔をした。九州選抜も相手チームも、当然カズが出るものだと思っていたからである。カズは何も言わず、じっと前を向いて試合を見つめていた。
 正直、ひどく悔しかった。他人のミスのせいで出られなくなった試合など、見ていることも辛かった。けれど、顔を背けることはプライドが許さなかった。
 耐えろ。必ず、出してもらえる。それだけを何度も心に言い聞かせて、きつくこぶしを握り、奥歯をかみしめる。そうでもしなければ、この悔しさに負けてしまいそうだった。

 けれど結局、カズも昭栄も、この日一度も試合に出ることはなかった。

 凍りついたようにベンチに座ったままのカズのもとへ、城光が歩み寄る。
「カズ。」
 ぎゅっと握られた手の温かさと、聞きなれたその一声に、カズの目に涙が浮かんだ。零れ落ちる寸前に、城光が頭にタオルをかけてそれを隠してくれる。そのまま頭を引き寄せられて、城光の胸でカズは耐え切れず涙を流した。
 悔しさや悲しさや憤り。理不尽な仕打ちに、カズは声も上げられないほどに傷ついていた。体を震わせて、ただ涙だけが止まらない。ぎゅっと握った城光の手とユニフォームの裾に、すがりつくことしかできなくて。
 傷ついた目をした昭栄がそっと歩き去ったことなど、カズは気づきもしなかった。



 城光にすがって泣いているカズの背を見たとき、昭栄は自分がとても大きな過ちを犯したことに気づいた。
 あの強く、プライドの高いカズが、ただ泣くことしかできずにいる。それほどに傷つけた原因は、自分のうかつさだ。わざと遅刻をしたわけではなかったけれど、それでもこの事実は昭栄の心を大きく傷つけた。
 これ以上その背を見ていることができなくて、昭栄は黙って背を向けた。

 ぼんやりと歩きながら、今どうして自分は歩いているんだろうと首をかしげる。別に目的地があるわけでもなく、用がないのならさっさと帰ればいいものを。
 つらつらととりとめもないことを考えながら、昭栄の足は止まらない。ふと目の端に止まった用具庫の裏手にふらふらと入って、座り込んだ。片ひざを抱えると、無意識にため息が出る。
    あー、俺傷ついとーっちゃね。カズさん泣かせてしまったけん。
 まるで他人事のように、昭栄は心の中でつぶやいた。
 自分が謹慎を受けるのは納得できる。ぼんやりしていた自分が悪いのだから、当然だ。ただカズを泣かせてしまったという事実が、心に痛い。
 昭栄は、好きな人を泣かせてしまったことがなかった。よく好きな子ほどいじめてしまう男の子がいるけれど、昭栄にはそれがなかった。好きな人には笑っていてほしいから。
 今と比べればおままごとのような恋愛でもしなかったことを、運命すら感じるほどに強く、激しく好きになってしまったカズにするなんて。
 もう、絶対嫌われた。嫌われて当然だ。一体どんな顔をして次の練習に来ればいいのだろうか。
 泣きたいのに涙は出なくて、抱えたひざに顔をうずめる。
    すごく怒って、何度も殴られた方が、ずっとずっと楽だったな。

「ショーエイ?」
 かすれた声に顔を上げると、涙で目を真っ赤にしたカズが立っていた。



 昭栄の口が、カズさん、と動いたのが見えた。声も出ないほど驚いたようである。
 自分でも、なぜここに来たのかわからなかった。城光と連れ立って帰る途中、ふとふらふらと歩く昭栄の背が目に入った。ただそれだけで、足は無意識に昭栄を追っていたのである。
 顔も見たくないと、思ってもおかしくはなかったのに。追いかけて、声をかけても、別に話をしたいわけでもなかったのに。
 もう一度カズさん、と小さく言った昭栄の目を見たら、どうしてだろう。
    こいつは俺が世話してやらんといかんな。
 ぎゅっと抱きしめた腕の中で、昭栄が何度も謝りながら泣くから。ついそんな風に思って、カズは昭栄の頭をなでた。

 カズが城光の胸で泣いたように、昭栄はカズの胸で泣いた。やっと流れ始めた涙と一緒に、言いたかった言葉も零れ落ちていく。
 ごめんなさい。ごめんなさい。本当は傷つけるつもりなんかじゃなかった。迷惑をかけるつもりじゃなくて、早く行って自主練でもして、ちゃんとしたかったのに。
 大好きなカズさんに、少しでも見直して欲しかったのに。
「もう、俺、選抜やめます。これ以上、カズさ、に迷惑、かけられん」
 子供みたいにしゃくりあげながら、途切れ途切れの昭栄の言葉を聴いて、カズは何度もその頭をなでた。あの能天気な昭栄が、ここまで責任を感じて泣いているなんて。
 自分だって悔しかっただろうに。そんなことは一言も言わずに、ただカズのことだけを気にして、こうして泣いている。
    それなら、もう許してやるしかなかよな。
 悔しさも悲しさも皆、昭栄の涙に溶けて消えていったみたいだ。どんなに泣いてもすっきりしなかった心が、今はこんなにも安定している。
「……やめるなんて、言うな。情けなか。」
 カズの言葉に、昭栄が顔を上げた。目は真っ赤に腫れていて、顔はぐちゃぐちゃだし、鼻水まで啜り上げている。
「だって、カズさん……」
 ガラガラになった声に、カズがもう一度その頭をなでた。出来の悪い子ほど親は愛しい、それってこんな気持ちなのかもしれない。
「やめんな。俺が言っとーけん、それでよか。」
「なし、ですか?」

「……お前がおらんと、つまらん。」

 嬉しさからだろう、また涙の浮く昭栄の目を見て、カズは照れ隠しにぐしゃぐしゃと昭栄の頭をかき乱した。
 次に顔を上げた昭栄は、涙をぬぐってにっこりと笑ったから。
「変な頭。」
 そう言って、カズも笑った。



監督も意味もなくこんなことをしたわけじゃないのですよ。そのあたりは、次のお話で。