今年の夏は、何かが起こる。
それは予感なんて曖昧なものじゃなく、確信。


出会い S-side


「あら、昭栄。こげん朝早くに、あんたどこか行くと?」
 少年の足元にある膨らんだスポーツバックを見て発せられた、どこか抜けた母親の言葉に、顔を洗っていた少年は思わず鼻から水を吸い込んだ。痛みに涙目になりながら、ぼやけた視界で何とか母親の姿を捉える。
「何言っとーと!?今日からサッカーの合宿ば行くって言ったとよ!」
「サッカー……?あんたバスケ部じゃなかやった?」
「いつの話ばしとーね!?この春からサッカー部入ったっちゃろ!?」
「そうやったと?陸上やらバスケやら……あんたころころ変わるけん、お母さんよぅわからんわ。」
 のんびりとした親に、少年はもう何も言うまいと顔を背け、タオルを手に取った。顔を拭いて、いつもの黒縁眼鏡をかける。クリアになった鏡面に映る自分の姿を確認して、大きなスポーツバックを肩にかけた。
「忘れ物はなかやの?」
 靴を履く自分の背後に建った母親に軽くうなずいて、少年は立ち上がる。
「いってきまーす!」
 弾む心のまま、駅に向かって駆け出した。
 高山昭栄、中二。サッカー九州選抜メンバーを選考する合宿に、DFとして選ばれた。サッカーを始めてわずか三ヶ月だが、監督推薦枠としての大抜擢である。
 選抜には、九州中のうまい奴が集まる。その中に初心者の自分が混ざる。不思議と緊張はなく、嬉しくて楽しみで、まるで遠足に行く小学生のように昭栄ははしゃいでいた。

 昭栄には、自分の運動神経への強い自信がある。今までやってきたどんなスポーツも、誰より早くうまくなれた。その代わり長続きしないのが難点ではあるが、なんとなく、サッカーは続けられそうな気がしていた。

 合宿所の最寄り駅に向かう電車に乗り込んで、昭栄は窓の外を眺める。しかし、すぐに心は景色から、自分の中のある確信に惹きつけられた。
 なんだろう、何か、この先でいい事が起きる。
 その何かのために、自分はサッカーと出会った。自分にとって大きな意味を持つらしいその何かに早く出会いたくて、はやる心を抑えきれず、じっと過ぎ行く景色を眺める。そんなことをしても電車の速度が変わるはずもなく、一人焦る少年を乗せて、電車はのんびりと目的地へ向かっていった。


 合宿所の集会室にはすでにすごい人数が集まっていることが、扉越しの気配でわかった。よーし、とつぶやいて、緩んだ顔を引き締めもせず昭栄は扉を開けた。
「ちわーっす!!」
 全員の視線が一気に自分を向いたことにひるむことなく、昭栄は辺りを見回した。
    うわ、皆大きか奴ばっかりやん。俺が普通に見えるげな、すごか〜。
 きょろきょろしていると、知らない顔ばかりの中に、一人だけ知っている人がいた。嬉しくなって駆け寄っていく。
「よっさん!久しぶりですたい!元気しとーとですか?」
 城光の変わらない落ち着いた物腰に、昭栄は喜んだ。

 城光とは一度だけ会ったことがある。
 まだバスケ部にいた春休み、試合でまた退場になった昭栄は、校庭のそばの水飲み場で座り込んでいた。落ち込んではいなかったが、うんざりしていた。
 バスケ部は昭栄には窮屈だった。コートも、プレイも、上下関係の厳しさも。うまくなるのは楽しかったが、スタメンが取れるようになると、窮屈さが増して面白くなくなった。
 そのとき、サッカー部の顧問に誘われるまま、なんとなくサッカーボールを蹴って誰もいないグラウンドを走ってみた。その広さに夢中になって走る自分に、声をかけたのが城光だったのである。
『ここのサッカー部見に来たとばってん、今日は休みか?お前部員じゃなかっちゃろ?ひどかへたくそやけんなぁ。』
 その日、日が暮れるまで、城光は自分の相手をしてくれた。素人には何が何だかわからないくらい、城光はうまかった。もう帰らないと家にいれてもらえなくなる、と笑った城光は、帰り際にこう言った。
『サッカーやるなら、DFがよかやぞ。俺もそうたい。自信あるなら、今度の選抜に挑戦せろや。』
 その後すぐ、サッカー部に入った、面倒な揉め事は一切無視して、とにかく練習に励んだ。そして才能と努力で急成長し、何とか選考合宿に呼んでもらえた、というわけである。

 がんばれという城光の言葉に力いっぱいうなずくと、急に城光の背後から別の声が聞こえた。
「ヨシ、誰やそいつは?」
 ぎょっとして視線を城光の後ろに移してはみたものの、そこには誰もいない。
    お、おばけ!?おばけなん!?
 と、思ったら、城光が振り返った瞬間、そこに迷彩の帽子をかぶった人間が突然現れた。
 まっすぐな黒髪は少し長めで、細めの首にかかっている。つんと通った鼻筋に、眉も大きな目も吊りあがって、気の強そうな印象を受ける。小さい口は怒ったように結ばれている。よく整った、もっと言えば可愛い、むしろ昭栄好みの顔と、絶妙な身長差。
 そこに至って、人間が急に現れるはずもないことに気づいた昭栄は、何か言おうとした城光に気づかないまま、思わず叫んだ。
「うわ!そげんとこに人がおったんか!小さかやけん気づかんかったと!!」
 その瞬間、空気が凍った。


 え、なに?と辺りを見回すと、凍りついている大勢の人たちと、頭を抱えた城光と、

「誰が小さいんじゃこのアホんだろーーーーーーっ!!!!」
 大音量とともに、怒りに震えてこぶしを繰り出す、迷彩の……




 第一印象、すごか人や……(震)