朝からよく晴れて、抜けるような青空が眩しいある日の昼下がり。
 しっかりと磨かれた呉城の回廊を、慌しく走り抜ける赤い燕尾の姿があった。


「甘寧殿!」
 若々しく爽やかなその声は常にもよく通る。それが駆け込むなり大きく張られた第一声ならば尚更。
 剣戟と気合の声、指導や談笑、多種多様な音の溢れた広い修練場の隅まで響き渡ったそれに、誰もが出入り口を振り返る。
 駆け込んできた若き呉の軍師・陸遜は、さっと場内を一瞥して目当ての人物がいないことを悟ると、集まった視線にばつの悪い様子でちょこんと頭を下げた。
 陸遜という人物は、大都督期待の軍師であり、戦においては一軍を率いる智将。見目は涼しげに整い、立ち居振る舞いは優雅にして穏やか。年齢からは若干奇妙に思えるほど、おおよそ欠けたところのない能吏である。
 そんな彼がばたばたと足音を立てて声を荒げる様に、しかしその場の兵卒たちは明るい笑い声を上げただけだった。再び場内に音が満ちる。
 以前ならばぎょっと目を疑ったその様子も、最近では実はあまり珍しくはない。それは大抵、むしろ決まって、彼が先に上げた名の男に関わる事柄で見られる、陸遜の歳相応な姿であった。
「陸軍師、まーたあの鈴馬鹿捜してるんですか?」
「これは、凌将軍……」
 目礼にひらひらと手を振りながら、凌統はいかにも嫌な奴を思い出したという風に顔を歪めてみせる。
「甘寧なら、昼前まではここにいましたけど。うぜーから追い出してやったんで、飯でも食いに行ったんじゃないすかね。」
「そう、ですか。では食堂へ向かってみます。」
「毎回毎回大変ですね、陸軍師も。」
 凌統にとっては天敵である甘寧と、どういうわけか懇意な少年軍師は、苦笑を浮かべてうなずいた。
「えぇ、本当に困った方で……」
 そう言いつつも、言葉には友誼が滲んでいる。再びぱたぱたと走り出した背中を見送って、凌統は軽くため息をついて修練に戻った。
 別に自分だって、甘寧が嫌いなわけではないのだが。いやきらいだけど。ちくしょうあの鈴野郎め。


 食堂内を見渡して、陸遜はやはりいないか、と少し肩を落とす。手近な席に座る兵卒に訊けば、甘寧は何やら弓隊の女性たちに囲まれて食事を終えた後、どこかへ連れて行かれたらしい。
「そりゃもう楽しそうでしたよー。羨ましいなぁ甘将軍……」
「……そうですか。どうもありがとう」
 ひとを走り回らせておいて、いいご身分ではないか。一瞬ぴくりとこめかみに苛立ちを浮かせて、陸遜は踵を返し、射場へ向かう。
 女性に囲まれてにやけた面をしていたら張り倒してやろうと意気込んで辿り着いた先に甘寧の姿はなかった。拍子抜けして入り口に佇む陸遜を見て、孫尚香付の女性兵が近付いてくる。
「陸遜様、どうかなさいましたか?」
 見覚えのある顔に、甘寧を取り巻いていた弓隊とは彼女たちのことだろうと当りをつける。その実はどうあれ、彼の持つ独特な威圧感や視線の鋭さに圧され、一兵卒で甘寧においそれと声をかけられる者は多くない。
 案の定、甘寧の名を出すと、彼女は華やかな笑顔を浮かべる。
「えぇ、甘将軍なら先程までこちらに。弓の稽古をつけていただきました。」
 その優しさを今この瞬間、自分にも分けてくれまいか、甘興覇。
「それで、その甘将軍はどちらへ?」
「何やらご用事とかで、呂将軍と連れ立って行ってしまわれました。」
 至極残念そうな響きの素直さに苦笑して、再び回廊を進む。さて、どこへ向かったものか。


 呂蒙の居場所を尋ねて回り、晴天の下、練兵場にその姿を見つけて駆け寄った。
「おぉ、伯言。そのように急いて、如何したのだ?」
「呂蒙殿、お忙しいところを申し訳ありません。甘寧殿を捜しているのですが……」
 頭を下げる陸遜の肩を優しく叩いて労をねぎらうと、呂蒙は疲れた笑みを漏らす。
「興覇か。先程まで一緒におったのだが、周都督に首根っこを掴まれてな。だから職務を怠るなと言っておるのに」
 武においては名高い甘寧だが、修練や練兵の熱心さと裏腹に、書類仕事は副官任せだ。呂蒙や陸遜が常々叱っても悪びれない彼に、とうとう大都督自らお出ましになったらしい。
「あぁ、間に合いませんでしたか……」
 抱えていたいくつかの書簡を見下ろして、陸遜は深くため息をついた。そうなる前に、急を要し、代わりのきかない案件だけでも片付けさせようと捜していたのだが。
「なに、気にするな。あれは少しばかり絞られた方が呉のためになる。」
「……だといいのですが、あの方のことですから。」
 甘寧はやればできるくせにやらないのだ。気が向くか、向かないか。やりたいか、やりたくないか。単純で素直な原理で甘寧は動いている。
 まだ甘寧とあまり親しくない頃、彼がかつて文官として仕官していた過去を知り、陸遜はひどく驚いた。無頼の将で知はないものと思い込んでいたからだ。
 それはそもそも甘寧が、そう見えるよう振舞っているせいでもある。仕事を放り出す度に、剣しか知らぬ粗野で阿房な賊上がりだと陰口を叩かれるのを、彼は全く気にしない。
「周都督がお叱りになるのはいいのですけれど、これでまた甘寧殿の風評に傷がつくと思うと、私としては口惜しいのです。」
 甘寧は平気でも、陸遜はそうではない。自分が好ましく思う人物を、取るに足らない小物に悪し様に言われるのが嫌だ。
 陸遜の再びのため息に、呂蒙は目を細めてうなずいた。
「さぁ、まだ遅いということはない。追ってそれを渡してやってくれ。」
 呂蒙の声音がとても優しくて、自分の言葉が何とも恥ずかしく思えてくる。親愛を口にするというのは、慣れないせいかとても照れくさかった。
 一礼して歩き出した背中に、頼もしく晴れやかな呂蒙の練兵の声が聞こえてくる。それに押されて、陸遜はまた走り出した。


「失礼致します。」
 重厚な扉をくぐれば、大量の書簡に忙殺されて、尚輝きを失わない白皙が顔を上げる。
「伯言か。今日は休みではなかったか?」
 陸遜の抱えた書簡を見遣って少し首を傾げた周瑜に、陸遜は困った顔で笑んだ。
「甘寧殿に書簡をお届けしようと捜しておりました。」
「成程。苦労するな、伯言よ。」
 軍師にとって希少な休日に、甘寧を捜し回って疲弊している部下を憐れんで、周瑜は眉根を寄せる。
「しかし伯言には済まないが、興覇は先程帰してしまったよ。悪い悪いと言いながら、二言目にはそも自分のような賊上がりは剣しか振れぬなどと嘯く。きつく言ってはおいたが、あれは堪えておらんだろうよ。」
 叱るこちらが疲れてしまったと苦笑を浮かべる周瑜に、陸遜も同じ表情で返した。
「かくなる上は、縄で縛ってでも……」
「うむ。命を落とさぬ程度までなら、私が許そう。」
 悪戯に言って笑い合う。なかなかに貴重な周瑜の冗談が聞けたのだから、度重なる空振りもまぁ悪くはなかった。

 大都督の執務室を辞去し、回廊の分かれ道で陸遜は足を止めた。
 さて、どうしよう。手がかりはなくなってしまった。甘寧のことだから、まさか素直に反省し、自身の執務室へ戻ってなどいないだろう。
 それでも万が一を考えて出発点へと戻ってみれば、やはりそこには書簡に塗れた甘寧の副官の姿しかなかった。
 急がなければ日が傾き始めてしまう。しかしもうそろそろ走り回るのも馬鹿らしくなってくる。どこかで暢気に昼寝でもしていたらどうしてやろうか。
 とりあえず歩いて、再び修練場へとやって来た陸遜に、凌統が驚いて駆け寄って来た。
「陸軍師!?もしかして、まだあの馬鹿と会ってないんですか?」
 “見つからない”ではなく、“会っていない”。
「凌将軍、もしかしてこちらに甘寧殿が?」
「えぇ、ちょっと前に。軍師が捜してらっしゃると言ったら、わかったと出て行って……だから待ってろって言ったんだっつの」
 それではどこかで行き違いになったのだろう。この状況で甘寧が向かうとしたら、呂蒙のいる練兵場か、甘寧か陸遜の執務室。
 ここまで来て、また屋外の練兵場へ向かうのは面倒だった。城中散々走り回って疲れている。何だか段々と腹が立ってきて、陸遜はにっこり笑った。
「それでは、私の執務室でお待ちすることにします。」
 今度は甘寧が、陸遜を捜して、訪ねてくるべきだ。世の中は公平でなければならない。休日を潰している分も、後々しっかり償ってもらわねば。



 静かな怒りを抱えて自室へ向かっていた陸遜は、ふと足を止めて庭先に目を向けた。空は橙に染まり始めている。半日捜し回り終ぞ耳にしなかった鈴の音が、近付いてきていた。
「よ、陸遜。捜したぜ」
 のんびり歩いてくる甘寧にひやりと冷たい視線を向けて、口の端だけで笑んで見せた。
「どうも、甘寧殿。こちらこそ、お捜ししておりました。」
「ん、聞いた。悪かったなー、お前今日休みだったんだって?」
「えぇ、でもお気になさらず。短く見積もっても三月はなかった休日でしたけれど、甘寧殿のお役に立てるのならば、私は一向に構いませんよ。」
「何だよ、怒ってんならそう言えよ、面倒くさい奴だな。急務の仕事ってこれか?」
 甘寧は悪びれない笑顔で嫌味をさらっと受け流し、陸遜の腕の中の書簡を取り上げる。眦を吊り上げそうになっていた陸遜は、書簡の代わりに渡された果実に固まった。
「……あの、甘寧殿。これは一体」
「どう見ても桃だろ。お姫さんに貰ったんだ。詫びにやるよ、好きだろ?」
 それより筆と墨貸してくれー、と間延びした声で陸遜の執務室へ向かっていく甘寧を、慌てて追いかける。
 これは一体どうしたことか。どうやら甘寧は、陸遜が何一つ言わずとも、素直に仕事を片付けるつもりらしい。
「ど、どうしちゃったんですか甘寧殿」
 何か気味が悪いんですけど。
 あまりの驚きに、ついつい本音が出た。口を滑らせた自分にあわあわと焦っている陸遜を振り返り、甘寧は帽子を奪って陸遜の柔らかな髪をぐしゃぐしゃにかき回す。
「ちょっと、やめてくださいよ!何ですか突然、何なんですか!」
 悲鳴を上げながらも手の中の桃を落としたくなくて、首を振って甘寧の手から逃れた。ぼさぼさになった前髪の間から睨め上げる。
「こっちに来る途中、凌統の奴がすげー剣幕で走ってきてよ。陸遜が休日返上で俺のこと捜して、疲れて怒ってるってな。」
 だからそれをやる、と桃を指して、また歩き出した甘寧は、陸遜を見ないまま続ける。

「それに、おっさんに聞いたんだ。」
 陸遜の居場所を知らないかと練兵場に顔を出した甘寧に、呂蒙はこの莫迦者が!と拳骨を一つ落とした。
『お前など今更どう言われておっても構わんが、あんな優しい子に気を遣わせて、お前はそれでも年上か!』
 何のことだかよくわからなかったが、聞けば成程、確かに陸遜には悪いことをした。自分のためを思ってくれたことも、素直に嬉しい。だからこうして来たというのに、気味が悪いとはご挨拶だ。
 呂蒙には何と情けないことよと追い出されるし、尚香には呆れた顔で笑われて、凌統にまで怒鳴りつけられる始末。
「まったく、うちの軍師さんは愛されてんなぁ。」
「は?」
 片手で髪を直しながら、未だ不機嫌さを残した顔で見上げてくる。その不器用な手付きに笑って、ささっと髪を整えてやった。
「ぁ、ありがとうございます」
「おー」
 律儀な陸遜は少し照れたように俯く。その頭を書簡の一つでぽんと叩いて、甘寧はにっと口の端を上げた。
「さっさとこれ終わらせたら、おっさんとこで酒でも飲もうぜ。」
 そこでようやく呂蒙が甘寧に聞かせたことが何だったのかに気付いた陸遜は、一瞬かっと顔を赤くして、それでも軍師としての矜持を守り、つんと胸を反らして見せた。
「とりあえず、帽子返してくださいよ。」




まさか私に無双が書けるとは思わなかった(笑)
どう見てもお前甘寧さんが好きだろと言わんばかりの出来上がりですが、だって好きなんだ。仕方ないんだ。
皆に可愛がられる陸遜、何だかんだ言いつつ好かれてる甘寧さん。
りょんとりっくをちょっとぎくしゃくさせてみたけど、特に他意はないです。
凌統が嫌いとかじゃなく、ケンカ仲間なのもちゃんとわかってるけど、何か気まずい。そういう陸遜もおもしろいかなと…。