ミカサと!
人類最強と呼ばれるようになったのはいつの頃だったか。
それ以前もそれ以後も、覚えている限りでは、このような事態に陥ったことなど一度もなかった。
壁際に追い詰められて、左側には握られた拳、右側には大きく開かれた手のひらが、それぞれ壁に叩きつけられて行く手を阻んでいる。ずいと近づけられた顔と顔の距離は拳一つ分も危うい。
思いつく言葉はただ一つ。
どうしてこうなった。
今日は休みだとミカサがふらりと現れて、あれこれ動き回るのにひよこのように付いてくるので手伝いをちょこちょことさせていた。
ミカサはイェーガー家でもよく家の手伝いをしていたそうで、何をさせてもそれなりに手慣れている。そつのないやつは嫌いじゃない。長年の上官根性というのか、人を従えることにも慣れているので、本人がいいならと割合好きに使っているところがあった。
別に不満そうでもなく、むしろ何かすることはありますかと追いかけてきていたのに、やはり嫌だったのだろうか。
だったら口で言えばいいだろう。一回りも年下の男に世に言う壁ドン体勢を強いられているこの屈辱といったら。
ズキズキとこめかみに奔る痛みに眉間を寄せながら、できるだけミカサと目を合わせないように視線を逸らしたまま口を開いた。
「お前、ミカサよ。どけ」
「嫌です」
間髪を入れず返ってきた答えに、リヴァイの眉間の皺が更に深くなる。
一体何の真似だと怒鳴ってやりたいが、至近距離で向けられているミカサの目が怖い。ただでさえあまり感情を宿さない漆黒の瞳孔が、ぽっかり開いた穴のように見開かれて、瞬きもせずに迫ってくるのだ。真夏の恐怖体験は丁重にお断りしたい。
「それは何ですか」
「……それ?何のことだ」
「とぼけないでください。その匂い。普段のあなたと違う匂いがする」
スン、と鼻を鳴らしたミカサに、リヴァイは少し耳を赤くして、うるせー何でもいいだろともごもご呟いた。
あれだけぎゃんぎゃん喚いておいて、結局エルヴィンに貰った香水を使ってみては、何だか上等な女になったような浮かれ心地を楽しんでしまっている。そんな恥ずかしいことを、どうして口になどできようか。
違うことに気付いたとして、指摘せずにいてくれればいいのに。これだからガキは。
「いいわけがない。自分のものから別の男の気配を感じて平気な男なんていない」
「お前のもんになった覚えはないんだけどな……」
「まだ言ってる。いい加減覚悟を決めるべき」
更にグッと距離を詰められて、
「あなたは私とエレンの子どもを産む」
耳元に直接届いた相変わらずのミカサの言葉に、リヴァイはぐったりと脱力した。
こんなにも不可解な口説き文句がこの世に存在するとは。
顔もよく、頭も悪くない、兵士としては超一流で、いい男のはずなのに。ある一部分においてのみ発揮されるミカサの近視眼的な一途さは、いい男であるはずのミカサをどこまでも残念な男に仕立て上げていた。
「お前な……一応忠告しておくが、まともな女がそんな口説き文句でよろめくと思ってんのか?わけわからん言い分は寝言でもやめとけ」
「だって仕方ない。私はあなたが欲しい。でも私だけのものにするなんて言ったらエレンが怒る」
「いや、二人で共有しようって言ってもあいつは怒るだろ」
「怒鳴られました」
もう言ったのか。道理で最近エレンのミカサへの警戒と牽制が激しいと思った。
はぁー、と深くため息をついたリヴァイの隙をついて、ミカサの腕が彼女の細腰をぐいと抱き寄せた。
「ちょ、こらやめろ!」
「どうして。ぎゅってして私の匂いをつけるだけ」
「いやいや絶対おかしい。絶対あぶねーからお前ほんと」
咄嗟に片腕をミカサの顎を押すように顔の間に差し込んで、もう片手で力一杯胸を突っぱねる。なかなかいい筋肉ついてんじゃねーかと感心するほどびくともしないが、こちらも抱き潰されるほど弱ってもいない。力負けする気はない。
たとえ掬い上げるように回された腕のせいで、足が地面についていなくとも。
「私の主張を知っていて、隙を見せるなんて迂闊。でも、あなたのそういう押しに弱いところはかわいい」
のけぞって拒否する女に、うっすらと微笑を浮かべて迫る大男。どう考えても犯罪だが、まだ無理矢理寝室に向かおうなどとしない辺りは更正の余地アリと言えるのだろうか。
今ならまだ間に合う。誰かこいつを正気に戻してくれ!