エルリの場合 母になる


 ふっくらと丸くふくらんだ腹を擦る。
 健康に産んでやるためには、しっかりと陽を浴びてよく食べよく眠り、無理のない程度に体を動かすこと。
 何度も言われ自分でも何度もノートを読み返した心得を口にしながら、干したシーツやシャツと一緒に、リヴァイも庭先で日光浴をしていた。
 以前にはなかったこの椅子は、リヴァイの懐妊を告げられてから真っ先に、夫が手ずから作ったものである。飾り気はないが、ゆったりともたれて楽に座れるように、細やかな心遣いの詰まった贈り物だ。
 その夫はというと、何かと無理をしがちなリヴァイを案じて、壁内兵団史上初の育児休暇をもぎとる偉業を達成し、今は台所でティータイムの準備をしてくれている。目の前で翻るシーツも、大判で負担になると取り上げられて、彼の手で干されたものだ。
 エルヴィン。兵団のトップとして間違いなく最も信頼のおける男だった彼は、夫としてもとてもできた男である。
 そしてこの腹の中には、そんな彼との、願ってやまない命が宿っていた。

 初子を授かるには、二人とも平均より随分と年かさだ。
 だからこそ宿ったとわかったときには思わずエルヴィンの胸に飛び込んでしまったし、四六時中付きまとう倦怠感と酷い吐き気の中にも幸せを感じるほど、とても嬉しかった。
 慣れないながらも一生懸命守り抜いて、今はもう臨月がすぐそこ。
 村の産婆の見立てでは、腹の張り方からして男の子ではないかということだ。エルヴィンは当初女の子がいいと言っていたが、今では目尻を下げて男の子向きの遊具などを思案している。腹の子は父の想いに応えるように、大きな問題もなく元気に育っている。
 リヴァイ自身も、割と悪阻が長い性質ではあったが、体調も随分と安定するようになり、落ち着いて食事もできるようになってきた。
 そうして安堵した心は、次なる試練をリヴァイにもたらした。
「リヴァイ。ミルクとジュースならどちらがいい?村の方々に新鮮な果物をいただいたから、搾りたてのジュースが作れるよ」
 少し果肉を残してみるのもいいね、と庭先へ顔を出したエルヴィンの問いかけに、俯いてぼんやりとしていたリヴァイは僅かに反応が遅れてしまう。
 あ、と口を開いたまま、失態と言わんばかりに顔をしかめた妻に、エルヴィンは穏やかに笑って寄り添った。リヴァイの小さな手の上に、すっぽりと覆ってしまう大きな手を重ねて、一緒にその腹を撫で擦る。
「どうしたんだい、そんなに難しい顔をして。私のスイートを困らせるのは一体どんないたずら妖精?」
「ふっ……その語り口やめろって言ってるだろ。こいつがお前みたいな気障やろーに育ったらどうしてくれる」
「おや、それは困ったな。モテすぎてすぐに奪われてしまうじゃないか」
「言ってろ」
 わざとおどけてふるまうエルヴィンにリヴァイもくすくすと笑って、しかしその微笑みはすぐに翳ってしまった。
 ここ最近繰り返し上るその表情に、エルヴィンは何も言わない。ただ手を握ってそこにいてくれる。俯いた彼女の顔を遮るように流れた長い髪を背中に梳いて、こつんと頭を寄せ合って、ぽかぽかした陽気に目を閉じて。
「今日は本当にいい天気だね。この子が生まれてくる日も、今日のように温かくて空がきれいだといい」
 ゆったりとした声だ。
 こんなとき、とても愛されていることを実感する。
 エルヴィンは無理強いをしない。いつだってリヴァイの心を包み込んで、すぐそばで待っていてくれる。本当にできた、できすぎているくらい上等な男。
 だからこそ。
「怖いんだ」
 ぐっと息を呑んでも、エルヴィンが震える肩を抱いていてくれる温かさに安心してしまって、一度出始めた言葉の波は止められなかった。
「もうすぐ生まれてくると思ったら、急に不安になってきて」
「あぁ」
「私は母親が何かわからない。必死で勉強もしたし、色んな人に話も聞いた。頭ではわかっているつもりだ。でも、私は親を知らないから」
「そうだね」
「赤ん坊は母親だけが頼りなんだ。なのにこの子の母親は、私は、親がどうやって子どもを愛するのか、そんなことも知らない」
 こんな自分が母親では、この子は幸せになれないかもしれない。こんなにも立派で愛おしい男の子どもだというのに。
「私は、この子の母親に、相応しくない―――……」

 そのとき、腹の内側から、ドン!と衝撃が走った。
 思わず喉を引き攣らせるほど、普段のトントンと響くような呼応とは全く違う、強い意思をもった蹴りだ。
 僅かに口を開けたまま固まるリヴァイの腹に、エルヴィンが手を当てて、耳を寄せる。
「うん、何だい?……そうか、うんうん。よくわかるよ。なるほどね」
 芝居がかった声色で腹に問いかけ頷きを繰り返して、迷子のように眉を下げて目を潤ませているリヴァイを見上げたエルヴィンは、微笑んで言った。
「リヴァイ。私たちのベビーが怒っているよ。そんな言葉で、僕のママを傷つけないでってね」
 そうだよ、と言いたげにまたトンと腹を蹴る我が子を宥めるように、何度も何度も、温かい手のひらがリヴァイの腹を撫でる。
「でも許してやってくれないか。お前のママは、家族を持つことも、出産も子育ても、何もかも初めてだ。お前を大切にしたいから、一生懸命だし、その分不安になってしまうんだよ。わかるだろう」
 トン、と次は、できるだけ衝撃のないように微かな力で返された反応に、お前は賢い子だねとキスを贈る。そうして今度はぐしゃぐしゃに泣いてしゃくりあげる愛しい妻をぎゅっと抱きしめた。
「エル……っ、ごめ、な」
「謝ることはない。それより痛かったろう、大丈夫か?」
 ふぐ、ひぐ、と喉を鳴らしながら、リヴァイは逞しい胸に擦り寄るように頷く。
 妊娠を機に少しずつ感情表現が顕になってきたリヴァイではあったが、ようやく素直に泣けるようになってくれたか。これまでずっと押し殺されてきたものの発露に、エルヴィンは心から安堵して、よしよしと小さな肩を撫でた。
「不安だと、言ってくれるのを待っていたよ。お前はいつでも背負いすぎる。この子が頼れるのは母親だけか?私はどうなる。自分で言うのもおかしいが、私は結構子煩悩になる自信があるぞ。いやってほど子育てに参加してやるから覚悟しておくといい」
 大体、リヴァイの周りには、彼女の子どもを心待ちにしている人間がわんさといる。かつての恋敵たち然り、兵団の部下たちは勿論、あのピクシス指令やザックレー総統までもが、予定日を気にして連絡を寄越したり、服やおもちゃを準備したり、最近ではとうとう赤子の世話を学ぶ会が有志で開催されまでしているのだ。

 エルヴィンと、愛し子と、そして彼らがいる限り、リヴァイをひとりぼっちになど絶対にさせはしない。
 愛されていることを、もっともっと感じて、幸せになれ。
 たくさんのものを背負わせた分、これからはその何倍も、安らぎと幸せを。

 エルヴィンの想いは、どうやら当人よりも先に我が子へ伝わったらしい。二人の手のひらの下で、トン、とまた微かな音がした。